平和にのんびり英語教育

香川県のフリーランスjackerのブログです。

当事者を「生きる」-「当事者研究」について考えたこと

研究手法として、「当事者研究」というものがあります。数値で測れない人間の「質」を問う研究手法です。

 

従来、英語教育の世界では、量的研究をはじめとした数値で測る物差しがメインストリームでしたが、近年世界的な傾向である「質的ターン」や「ナラティブターン」によって、数値をはじめとした量では表現することのできない繊細で微妙な世界を描写しようというパラダイムシフトが起こっています。

 

当事者研究のルーツは心理学の「ケース・スタディ」までさかのぼることができるかもしれません。ケース・スタディでは、事例研究が盛んに行われ、1つの事例について様々な研究者が語り合うことを主眼としていました。

 

そして、「当事者研究」を大々的に行ったのは、何と言っても「べてるの家」でしょう。統合失調症をはじめとした当事者とソーシャルワーカーたちが「語り合い」、従来投薬療法でしか治療が出来なかったこれらの病気に対して、対話療法でかなりの成果をあげてきました。

 

当事者研究では、当事者と研究者の個体を重視するのではなく、彼らに巻き起こる「語り合い」が重視されています。「語り合い」を有機的に、生物的にとらえ、どのような語り合いが行われるかによって、研究の中身は変容していくとされています。

 

この「語り合い」を充実させるにはどうすればよいかと考えたのですが、私は以下の考えを持つようになりました。今回は研究者サイドによる視点です。

 

・研究者は当事者の世界を「生きる」

 

当事者研究では、当事者の「物語」が重要視されます。その「物語」をうまく作れるかどうかが、研究者の裁量に関わっています。

 

そのためには、研究者は鋭敏な感受性と共感能力によって、当事者の世界を内側から「生きる」必要が出てきます。

 

物語とは、乱暴に言うならば、出来事と出来事を意味によってつなぐことです。まず、意味付けの力がないと、良質な研究はできませんし、そのような「つなぐ」という力が何より大切になってきます。

 

そうした意味は、なんでもいいのではなく、当事者自身に新しく意味を価値づけさせる必要が出てきます。

 

しばしば研究者は当事者に「聞く」ことを優先させてしまい、当事者に新たな意味を発掘させる行為を怠ってしまいます。あるいは研究者の主観を押し付けてしまう場合もあります。ここで重要なのは、「他者を支配するのではなく、他者がいて自己がいる」という価値観への発想転換だと思われます。

 

さて、研究者と当事者の深い信頼関係によって生み出された「意味」は、それ自体が有機的に動き、新たな意味の発掘につながっていきます。

 

では、「生きる」とはどういうことなのでしょうか?

 

ここで『独眼竜政宗』というドラマについてインタビューに参加した渡辺謙さんの語りを紹介します。渡辺謙さんは当時、衆目知るところの大御所であった勝新太郎さんについて、「勝さんは豊臣秀吉を『演じていた』のではなく、『生きていた』と思います」という趣旨の内容を語っていたことを、私は記憶しています。

 

 

これは演技というメタファーかもしれませんが、自己と異なる他者を「生きる」ためには、感受性と共感能力をベースにした、深い想像力による「表現力」も必要になってくるのかもしれません。

 

私は先週、甲野善紀先生の最新術理体験会に参加しましたが、甲野先生は「武術と演劇は共通するものがある」という趣旨の内容を語られていました。こころとからだを中心とした人間をつかさどるシステムを自分も他者も納得のいくように起動させ、それを外的世界に表出させるということによって、武術と演劇は同じ目的を実行するという風に、私は解釈しています。

 

そうした感受性・共感能力・想像力・表現力によって、研究者は当事者の世界を「生きる」ことができるのでは、と考えるようになりました。

 

物語の創造はしばしば「アイデンティティの探究」と言われます。研究者は当事者のアイデンティティを「意味」と通じて、掘り起こす必要があるのかもしれません。

 

参考文献:

和泉敏之 (2017) 『文化の世界-英語教師に向けた相互文化理解教育の未来』日本橋出版

河合隼雄 (2002) 『物語を生きる』小学館

ジャン=ミシェル・アダン 著、末松 寿・佐藤正午 訳 (2004) 『物語論白水社

やまだようこ 編 (2007) 『質的心理学の方法-語りをきくー』新曜社

「野郎ども」の労働はどうなる!?-『ハマータウンの野郎ども』を読んで考えたこと

およそ1ヵ月かかって、『ハマータウンの野郎ども』を読了しました。カルチュラル・スタディーズの名著ともいわれ、もともと興味があったのですが、ようやく読了しました。

 

この本では、英国の「ハマータウン男子校」という仮名の学校における「野郎ども」と呼ばれる集団を中心に、筆者が参与観察という手法を用いて、研究したものです。「野郎ども」とは「輩」という言い方もできるでしょうし、いわゆる「不良」に近いと思います。

 

筆者は「野郎ども」たちが英国にまとわりつく「階級社会」によって生み出されたものであり、その階級性と交わりながら、独自の文化を形成する、としています。

 

日本では「階級社会」とはなじみのないことばかもしれませんが、格差社会が拡大する日本も階級社会は遠い世界の話ではなくなってきています。

 

ここで注目すべきなのは、「野郎ども」の労働観です。「野郎ども」は労働に対して、「生き甲斐」のようなものを重視せず、簡単に言えば、金稼ぎに重点を置いた働き方をする、ということです。

 

それは「インフォーマルな文化」であり、学校という権力装置が受け持つ「フォーマルな文化」に対抗しながら形成されてきたもののようです。

 

これは日本でもありうる話ではないでしょうか? 学業に対しては反発的な態度を持つ学習者も、労働となれば能力を発揮し、社会に出てから活躍していくという生き方です。

 

しかし、ここである問いを立ててみました。

 

(問い)人口知能が発展する世界で「野郎ども」はどのような労働を行いうるのか?

 

人工知能の発展で、多くの職業が人間の手の負えないものになると言われています。従来、人間の「手」で行われてきた職業が、人工知能という存在に取って代わられる、ということです。

 

そうした世界の動きの中、仕事に生きがいを求めない「野郎ども」は果たしてどのように生きていくのでしょうか?

 

人工知能の発展により、これからは仕事以外の生き方に生き様を見せなくてはいけないという人もいます。仕事以外の趣味や余暇をうまく活用できる人々こそが、人工知能時代を「生き残れる」ということです。

 

私は安っぽいマーケティングのような話はしたくありません。また、人工知能に無批判的に迎合する研究者も軽蔑しています。ですので、あくまで「未来の可能性」という不確実性の中の話なのですが、人工知能の発展によって、多くの「野郎ども」が「生きる術」を見いだせなくなってもおかしくはありません。

 

「野郎ども」は労働(金儲けが主体的目的の労働)のために、学校へ反抗し、独自の文化を形成してきました。そのような「文化」は消滅してしまうのでしょうか?

 

ここで重要なのは「生きる」ということについて「野郎ども」に体験的に味合わせながら手ほどきをしていくことです。人工知能も一瞬で1から100まで上げられても、0から1は作ることができません。そのような「創造的な生き方」の醍醐味を味合わせる必要があるのではないでしょうか?

 

そのような「創造的な学び」を重視する実践者たちは数多く存在します。彼ら/彼女らの実践を参考にしながら、「野郎ども」も他の学習者も「生き甲斐」を味わえるような生き方ができるようなしくみをつくる必要があるのかもしれません。

 

さらに使い古されたことばですが、「人のために働く」という価値観を「野郎ども」に持たせる工夫が必要かもしれません。自分だけのためではなく、誰か大切な人のために「働く」という人間臭い価値観を重視すべきではないでしょうか?

 

人工知能の可能性は無限大なので、これからどのような世界が訪れるかはわかりません。しかしながら、人間が「人間らしく」生きることを変える必要はありません。人工知能の発展によって、そのような生き方を推奨する動きは強化されるかもしれません。文化を大切にしながら、人間らしく生きる方法を、我々は仮作していく必要があるのではないでしょうか?

 

参考文献:

ポール・ウィリス 著、熊沢誠山田潤 訳 (1996) 『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫

 

参考URL:

人工知能時代の人間の生き方は、古代ローマに学ぶべし」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51511?page=2

テレビチャート

私が運営にかかわっているウェブサイトのご紹介をさせて頂けましたら幸いです↓↓

 

tv-chart.com

 

上記のウェブサイトの一部の記事を書いています。元々、カルチュラル・スタディーズが好きなので、大衆文化の1つの形態としての、芸能人の紹介のようなものを書いています(本ブログとあまりに文体が異なるので、戸惑う方もいらっしゃるかもしれません……)。

 

ご興味のある方はどうぞご覧頂けましたら幸いです。

世界とつながることー『できない理由は、その頑張りと努力にあった』を読んで考えたこと

購入してから所用で読んでいなかった『できない理由は、その頑張りと努力にあった』を読了しました(自分の勉強不足と怠惰な生き方にほとほと嫌気がさします)。

 

甲野善紀先生のことは、2009年に私は知りましたが、私が軽視していた「からだ」の重要性を深い次元で教えてくださる方として、注目していました。その後、『数学する身体』などを読んで、その著者である森田真生先生なども甲野善紀先生のことを「師」として捉えていることを知り、ますます興味がわいていました。

 

私は幼少期から運動音痴ですし、身体論をはじめとした「からだに対する探求」についてはほとんど知りません。今回私が書く駄文は、その素人的な考えによって、この本を自分なりに解釈してみた結果です。私の過大なる誤解が入っていますので、ご興味のある方は、どうぞご自身でこの本をお読みください。

 

私がこの本を読んで、特に感銘を受けたのは以下の5つの点です。

 

・人は他人に押しつけられたものには反発する

・師は弟子に新しい世界を見せる

・コントロールしようとすることの愚

・本気になって追求すれば、素晴らしい世界を体験できる

・語りを引き出すこと

 

・人は他人に押しつけられたものには反発する

 

これは特に教育と関係のあることだと思うのですが、何かを学ぶ人はそれを押し付けだと考えると反発するということです。嫌々ながら強制的に「させられた」ことを「勉強」しても、学習者は深く「学んだ」ことにならないのではないか、というのは、教育の仕事を一応やっている私にも経験があることです。

 

ですので、「師匠」というのは「弟子」に興味を持たせることが重要だということです。興味を持って、自発的にある対象について向かっていこうという意識を生み出せなければ教育は教育として機能していないのではないか、という指摘はその通りだと思います。

 

このとき、どのようなことを「興味」だといえるのかですが、それは「問題意識を抱く」ことではないでしょうか?

 

ある対象に対する「知識」をインプットするだけでなく、その対象について自分なりの疑問を持つことが重要ではないかと思わされます(甲野先生は「違和感」を持つことが重要だとも言っていました)。

 

・師は弟子に新しい世界を見せる

 

ではそのような「態度」を弟子に持たせるにはどうすれば良いのでしょうか? それは師は弟子に「このような世界もあるのか」ということを見せることです。弟子は自分たちの世界では解決できない問題を師の中に見出します。それにより、師と弟子に「探究心」が生まれます。

 

このとき、師と弟子は同じ問題に向かって探求を始めます。決してgoalにたどり着くことのない問題に対して、師と弟子は向かっていくわけです。

 

師は同じ方向を向きながら、弟子の成長を見守ります。学習者をコントロールしようとする(洗脳)傾向が強い教育関係者には耳の痛い話ではないでしょうか?

 

・コントロールしようとすることの愚

 

それは師弟関係のみならず、一般的な人間関係でも当てはまります。他者をコントロールしようとしても、他者はそれに気づき、距離をとられていきます。

 

他者は自己が永久にたどり着くことのない「他者」として捉える必要性はレヴィナスも指摘する通りです。

 

しかし、これは自己にも当てはまるのではないかと考えました。自分をコントロールしようとしても、自分に裏切られる体験は案外多いものです。

 

まず私たちは自分たちへのコントロール欲を弱め、自分は永久に操れないものなのだと認識することから始める必要がありそうです。

 

そして、他者も、自分ではコントロールできない「存在」として認識することが、本当の「リスペクト」ではないでしょうか?

 

・本気になって追求すれば、素晴らしい世界を体験できる

 

自己が自己のもとから離れた存在であるため、私たちは何とか自分自身を保とうとします。そして、自分自身を保つため、興味は外の世界に向かっていくのかもしれません。

 

そうした自己とつながった「他者」に、自己は同化し、「追求」を始めます。しかし、甲野先生も言うとおり、「思い描いた夢は必ず叶う」ほど世界は単純ではないということです。

 

自己とつながった「他者」を私たちは「獲得」しようとします。しかし、「他者」は先述したとおり、自己のコントロールには及ばない「存在」です。

 

このとき、「他者」は自己とつながった状態ですので、自己は他者を獲得できないときに、自分自身を否定されたという意識を強く持つことになるでしょう。

 

しかし、そのように1つの「道」を追求した結果、見えてくるものは必ずあるはずです。「自己が求める世界」は獲得できないかもしれませんが、自己は求めていた「他者」とつながった状態の別世界を体験できます。

 

ある特定の「他者」に向けられていたつながりを、さまざまな事象につなげていく状態が生まれるというべきでしょうか(「1人の人間のことを深く考えていれば、人は世界のことを考えざるを得なくなる」というのはよく聞くことです)?

 

ですので、私たちは「願い続ければ必ず叶う」という精神論に振り回されず、「自己が世界とつながる」体験を願っていくべきではないでしょうか?

 

そうすれば、自己は他には代替されない「個」になれるのではないでしょうか?

 

・語りを引き出すこと

 

最後に、この本の本筋からは離れるのですが、この本のスタイルとして、語り手の甲野善紀先生の語りを、聞き手の平尾文さんが聞き取るという形式になっています。

 

相手の語りを引き出すことの難しさは、教育の仕事にかろうじてつながっている自分には特に感じられることです。この本の中のテンポのよさが伝わってくる甲野先生と平尾さんの語りと聞き取りから感じたことがありました。

 

それは、聞き手は語り手に新しい意味を発見させるということです。

 

聞き手は疑問の解決のために語り手の語りを引き出すのはもちろん前提として大切なことです。しかしそれを超えた、語り手にも新しい意味を発掘させることができるのが大切ではないかと感じました。

 

私は心理カウンセリングについて少しかじったことがありますが、私が尊敬する河合隼雄さんも同様のことを語っており、それを思い出しました。

 

以上が私がこの本を読んで、自分に当てはめてみて解釈したことです。久しぶりに深い読書ができました。このような世界を見せていただけた甲野先生と平尾さんに感謝いたします。

 

参考文献:

甲野善紀・平尾文 (2016) 『できない理由は、その頑張りと努力にあった』PHP研究所

 

世界平和へのカギ-自律的学習者とユニバーサルデザイン-

世界平和とは何なのでしょうか? これまでこの問題について多くの議論がなされてきました。

 

世界史を見てみると、世界の歴史は「戦いの歴史」だったと言われています。現代にいたるまで、「平和」と呼べる世界情勢だったことはありません。

 

「平和」の定義がそもそも難しいため、乱暴な議論はできませんが、「戦闘のない状態」として捉えることにします。

 

そうすると、「世界平和」とはユートピアでしかありえないのでしょうか?

 

社会主義もかつてはユートピアと言われました。しかし、全体主義に転換し、悲劇をもたらしたことは知っての通りです。

 

ですので、世界平和のためにユートピアを設定するのがそもそも間違っているのかもしれません。

 

では、人間の集団、すなわち「民」の視点から考えるとどうなるのでしょうか?

 

戦争は国家レベルで起きる凶悪です。それを実行できるのは時の権力者です。

 

民ができることはそれを食いとどめることでしょう。

 

そのためには、政治に鋭敏に反応し、メディアに惑わされず、自分自身のことばで考え、語ることのできる「市民」が必要になってきます。

 

これについて妄想した際、私が真っ先に思い浮かんだのが、「自律的学習者」という概念でした。

 

自分の言動に責任を持ち、自分の力で生涯的に学んでいくことのできる学習者のことです。

 

そうした学習者が増えることにより、民は政治のコントロールする存在ではなくなり、政治を動かす存在になれるのではないでしょうか?

 

世界平和をユートピア的にとらえるのではなく、民に視点を移せば、1人1人がしっかりと考えることのできる社会を生み出すことが、世界平和のカギなのかもしれません。

 

もちろん、そういう状況を生み出すのが先手です。貧困や病気などにより、そもそも「考える」ことのできる状況が作られないと、前提が覆ってしまいます。

 

ですので、強い者は弱い者を支え、1人1人が快適に最低限度の生活を送れるという土台が必要になってきます。

 

こうしてみると、この発想はユニバーサルデザインに限りなく近づくと思います。

 

では、ユニバーサルデザインユートピアとして設定すればいいのでは? という考えもあるでしょうが、理想と現実は必ずしも合致しません。空想上の世界を現実に根付かせたとき、必ず矛盾は生じます。

 

ですので、1人1人が自律的学習者になり、ユニバーサルデザインの精神を持つことが、世界平和につながるのではないか……というのが私の現在の暫定的な「世界平和」のための回答になります。

 

参考文献:

和泉敏之 (2016) 『教師に向けた「輝く英語教育を夢見て」』日本橋出版

和泉敏之 (2017) 『中学生のための生きる力を養う勉強法』日本橋出版

 

 

どうして勉強するの?

皆さんは以下の問いかけにどう答えるでしょうか?

 

「どうして勉強しなければならないのか?」

 

まず、私の愚見を述べますと、上の問いの立て方は間違っていると思います。「勉強『しなければならない』」というのは他からの強制を前提としており、自ら「勉強する」という命題を否定していることになるからです。

 

ですので、問いを「どうして勉強するの?」に変えたいと思います。

 

では、どうして我々は勉強するのでしょうか?

 

今回は、私自身と私と関係のある大人を振り返り、それらを「反面教師」として見立てることにより、逆のベクトルを目指すという思考法のもと、妄想したことをベースにしています。

 

また、この問いに対する絶対的な答えはありません。絶対的な答えと言ってしまっている以上、その存在がなくてはおかしいでしょうが、「絶対的な答えの代替案の1つ」ととらえて頂ければ幸いです。

 

私の思う「どうして勉強するの?」の「答えの代替案」は以下のものです。

 

自分自身を知るため

 

なんだ? よく聞くことじゃないか? と思われるかもしれません。しかし、私なりの答えは単に「自分の世界についての知識をインプットする」ことではありません。

 

世の中には、自分が強いと思い込んでいる大人が多いです。そういう人は自分が正しいと思い込み、周りをコントロールしようとするものです(そういう人が権力を握ってしまうと、あのヒトラーのような「存在」になってしまうかもしれません)。

 

私が目標とするのはその逆のベクトルです。

 

すなわち、「自分の弱さを知る」ということです。

 

先にあげた「勉強観(?)」は自分を大きくしていくことです。

 

私は逆に自分を小さくしていくことこそが「学び」あるいは「勉強」だと思います。

 

学べば学ぶほど、自分の弱さを知り、自分を小さくしていき、謙虚になっていく……

 

そうして自分はこの世界に生まれた小さな小さな存在であることを実感することが、私の思う「学び」あるいは「勉強」です。

 

そして、「もっと世界のことを知りたい」と思う「好奇心」を持てることが「学び」あるいは「勉強」だと思っています。

 

私の知人なら知っての通り、私は身体的にも精神的にも生理的にもかなり弱い人間です。だからこそ、こういう発想を好んでいるのかもしれません。自己正当化の部分もあるでしょうが、1つのアイディアとして参照頂けましたら幸いです。

 

世の中は「強さ」をベースにして語られることが多いですが、それとは逆の「弱さ」を基に、もっと世界が語られてもいいのではないか? というのが私の意見でした。

 

自分の弱さを認め、他者の弱さをも認められる「人間」になりたいと願っています。

 

参考文献:

和泉敏之 (2016) 『教師に向けた「輝く英語教育を夢見て」』日本橋出版

和泉敏之 (2017) 『中学生のための生きる力を養う勉強法』日本橋出版

 

「主体性」について

私は一時期、アクティブラーニングに関するブログを運営していましたので(現在、そのブログの権利を私は持っていません)、アクティブラーニングにおける「主体性」について妄想したことがありました。

 

「主体的に動け!」「自分で考えろ!」とはよく聞かれる説教ですが、そもそも「主体性」とは何なのでしょうか?

 

主体性の反対概念を考えていたところ、「消極性」は適切ではないと思うようになりました。

 

消極性が否定する「積極性」という概念にも、他者の影響から思考したり行動する要素が見られるためです。憧れの人がいて、その人を真似て「積極的」に動くというのは「主体的」なのでしょうか? それは「自分」というものを強く持っていることを本当に意味するのでしょうか? 私は必ずしも全てがそうとは限らないと思います。

 

とすると、「主体性≒積極性←→消極性」という式は適切ではないのかもしれません。

 

では「主体性」とは何なのでしょうか?

 

他の影響を受けず、自分の「意志」で動くということは一体何を意味するのでしょうか?

 

私が出した結論は……

 

そんなものないということでした。

 

人間は生きる歴史の中で、必ず何かの影響を受けるものです。独断的な判断だとしても、それは何かが「トリガー」になっていることがほとんどでしょう。

 

人間の言語が「たった1つの自分のものではない言語」であるのと同様、あらゆる思考や行動も、他の影響を受けていると言わざるを得ないのではないでしょうか?

 

では、話を戻して「主体性」とは何なのか?

 

それは「他者からの模倣や租借を行いながら、自分なりのパターンを築いていく」ことだと思います。

 

ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」の考えに私は肩入れするつもりはありませんが、人間は生まれ落ちたとき、ほとんど世界の「あり方」について知らないと思います。

 

「やり方」については遺伝的に形成されているかもしれません。しかしながら、「あり方」については「世界」を経験するまでわからないのではないでしょうか?

 

世界を経験するというのは、「生きる」ことに他なりません。とりあえず、生きた後で、世界について経験したというのが無難かと思われます。すなわち、「世界のことは死ぬまでわからない」ということです。

 

その「世界のあり方」について、自分の内側にどんどんパターンを取り込んでいくことが主体的に動くためのヒントになるかもしれません。

 

パターンは最初は単なる情報としてしか入力されていないのかもしれません。しかし、そのパターンに対する出力が頻繁になると、それは「行動様式」という「入力ー出力」という言語では表現できない事態となるでしょう。

 

参考:

jacker1223.hatenadiary.jp

 

そういった「行動様式」をつかんで「世界を知る」ことが「主体性」の正体としか、現在の私には言えません。

 

そこに「積極/消極」という要因を入れるのは、議論がかみ合わないのではないかと思った次第です。

 

とすると、主体性を養うためには、謙虚に世界について知っていくことが一番の近道かもしれません(もちろん世界は知れば知るほど複合化していくのですが……)。

 

参考文献:

ニクラス・ルーマン 著、土方透、大澤善信 訳 (2016) 『自己言及性について』ちくま学芸文庫