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平和にのんびり英語教育

香川県の教育フリーランスjackerのブログです。

世界平和へのカギ-自律的学習者とユニバーサルデザイン-

世界平和とは何なのでしょうか? これまでこの問題について多くの議論がなされてきました。

 

世界史を見てみると、世界の歴史は「戦いの歴史」だったと言われています。現代にいたるまで、「平和」と呼べる世界情勢だったことはありません。

 

「平和」の定義がそもそも難しいため、乱暴な議論はできませんが、「戦闘のない状態」として捉えることにします。

 

そうすると、「世界平和」とはユートピアでしかありえないのでしょうか?

 

社会主義もかつてはユートピアと言われました。しかし、全体主義に転換し、悲劇をもたらしたことは知っての通りです。

 

ですので、世界平和のためにユートピアを設定するのがそもそも間違っているのかもしれません。

 

では、人間の集団、すなわち「民」の視点から考えるとどうなるのでしょうか?

 

戦争は国家レベルで起きる凶悪です。それを実行できるのは時の権力者です。

 

民ができることはそれを食いとどめることでしょう。

 

そのためには、政治に鋭敏に反応し、メディアに惑わされず、自分自身のことばで考え、語ることのできる「市民」が必要になってきます。

 

これについて妄想した際、私が真っ先に思い浮かんだのが、「自律的学習者」という概念でした。

 

自分の言動に責任を持ち、自分の力で生涯的に学んでいくことのできる学習者のことです。

 

そうした学習者が増えることにより、民は政治のコントロールする存在ではなくなり、政治を動かす存在になれるのではないでしょうか?

 

世界平和をユートピア的にとらえるのではなく、民に視点を移せば、1人1人がしっかりと考えることのできる社会を生み出すことが、世界平和のカギなのかもしれません。

 

もちろん、そういう状況を生み出すのが先手です。貧困や病気などにより、そもそも「考える」ことのできる状況が作られないと、前提が覆ってしまいます。

 

ですので、強い者は弱い者を支え、1人1人が快適に最低限度の生活を送れるという土台が必要になってきます。

 

こうしてみると、この発想はユニバーサルデザインに限りなく近づくと思います。

 

では、ユニバーサルデザインユートピアとして設定すればいいのでは? という考えもあるでしょうが、理想と現実は必ずしも合致しません。空想上の世界を現実に根付かせたとき、必ず矛盾は生じます。

 

ですので、1人1人が自律的学習者になり、ユニバーサルデザインの精神を持つことが、世界平和につながるのではないか……というのが私の現在の暫定的な「世界平和」のための回答になります。

 

参考文献:

和泉敏之 (2016) 『教師に向けた「輝く英語教育を夢見て」』日本橋出版

和泉敏之 (2017) 『中学生のための生きる力を養う勉強法』日本橋出版

 

 

どうして勉強するの?

皆さんは以下の問いかけにどう答えるでしょうか?

 

「どうして勉強しなければならないのか?」

 

まず、私の愚見を述べますと、上の問いの立て方は間違っていると思います。「勉強『しなければならない』」というのは他からの強制を前提としており、自ら「勉強する」という命題を否定していることになるからです。

 

ですので、問いを「どうして勉強するの?」に変えたいと思います。

 

では、どうして我々は勉強するのでしょうか?

 

今回は、私自身と私と関係のある大人を振り返り、それらを「反面教師」として見立てることにより、逆のベクトルを目指すという思考法のもと、妄想したことをベースにしています。

 

また、この問いに対する絶対的な答えはありません。絶対的な答えと言ってしまっている以上、その存在がなくてはおかしいでしょうが、「絶対的な答えの代替案の1つ」ととらえて頂ければ幸いです。

 

私の思う「どうして勉強するの?」の「答えの代替案」は以下のものです。

 

自分自身を知るため

 

なんだ? よく聞くことじゃないか? と思われるかもしれません。しかし、私なりの答えは単に「自分の世界についての知識をインプットする」ことではありません。

 

世の中には、自分が強いと思い込んでいる大人が多いです。そういう人は自分が正しいと思い込み、周りをコントロールしようとするものです(そういう人が権力を握ってしまうと、あのヒトラーのような「存在」になってしまうかもしれません)。

 

私が目標とするのはその逆のベクトルです。

 

すなわち、「自分の弱さを知る」ということです。

 

先にあげた「勉強観(?)」は自分を大きくしていくことです。

 

私は逆に自分を小さくしていくことこそが「学び」あるいは「勉強」だと思います。

 

学べば学ぶほど、自分の弱さを知り、自分を小さくしていき、謙虚になっていく……

 

そうして自分はこの世界に生まれた小さな小さな存在であることを実感することが、私の思う「学び」あるいは「勉強」です。

 

そして、「もっと世界のことを知りたい」と思う「好奇心」を持てることが「学び」あるいは「勉強」だと思っています。

 

私の知人なら知っての通り、私は身体的にも精神的にも生理的にもかなり弱い人間です。だからこそ、こういう発想を好んでいるのかもしれません。自己正当化の部分もあるでしょうが、1つのアイディアとして参照頂けましたら幸いです。

 

世の中は「強さ」をベースにして語られることが多いですが、それとは逆の「弱さ」を基に、もっと世界が語られてもいいのではないか? というのが私の意見でした。

 

自分の弱さを認め、他者の弱さをも認められる「人間」になりたいと願っています。

 

参考文献:

和泉敏之 (2016) 『教師に向けた「輝く英語教育を夢見て」』日本橋出版

和泉敏之 (2017) 『中学生のための生きる力を養う勉強法』日本橋出版

 

「主体性」について

私は一時期、アクティブラーニングに関するブログを運営していましたので(現在、そのブログの権利を私は持っていません)、アクティブラーニングにおける「主体性」について妄想したことがありました。

 

「主体的に動け!」「自分で考えろ!」とはよく聞かれる説教ですが、そもそも「主体性」とは何なのでしょうか?

 

主体性の反対概念を考えていたところ、「消極性」は適切ではないと思うようになりました。

 

消極性が否定する「積極性」という概念にも、他者の影響から思考したり行動する要素が見られるためです。憧れの人がいて、その人を真似て「積極的」に動くというのは「主体的」なのでしょうか? それは「自分」というものを強く持っていることを本当に意味するのでしょうか? 私は必ずしも全てがそうとは限らないと思います。

 

とすると、「主体性≒積極性←→消極性」という式は適切ではないのかもしれません。

 

では「主体性」とは何なのでしょうか?

 

他の影響を受けず、自分の「意志」で動くということは一体何を意味するのでしょうか?

 

私が出した結論は……

 

そんなものないということでした。

 

人間は生きる歴史の中で、必ず何かの影響を受けるものです。独断的な判断だとしても、それは何かが「トリガー」になっていることがほとんどでしょう。

 

人間の言語が「たった1つの自分のものではない言語」であるのと同様、あらゆる思考や行動も、他の影響を受けていると言わざるを得ないのではないでしょうか?

 

では、話を戻して「主体性」とは何なのか?

 

それは「他者からの模倣や租借を行いながら、自分なりのパターンを築いていく」ことだと思います。

 

ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」の考えに私は肩入れするつもりはありませんが、人間は生まれ落ちたとき、ほとんど世界の「あり方」について知らないと思います。

 

「やり方」については遺伝的に形成されているかもしれません。しかしながら、「あり方」については「世界」を経験するまでわからないのではないでしょうか?

 

世界を経験するというのは、「生きる」ことに他なりません。とりあえず、生きた後で、世界について経験したというのが無難かと思われます。すなわち、「世界のことは死ぬまでわからない」ということです。

 

その「世界のあり方」について、自分の内側にどんどんパターンを取り込んでいくことが主体的に動くためのヒントになるかもしれません。

 

パターンは最初は単なる情報としてしか入力されていないのかもしれません。しかし、そのパターンに対する出力が頻繁になると、それは「行動様式」という「入力ー出力」という言語では表現できない事態となるでしょう。

 

参考:

jacker1223.hatenadiary.jp

 

そういった「行動様式」をつかんで「世界を知る」ことが「主体性」の正体としか、現在の私には言えません。

 

そこに「積極/消極」という要因を入れるのは、議論がかみ合わないのではないかと思った次第です。

 

とすると、主体性を養うためには、謙虚に世界について知っていくことが一番の近道かもしれません(もちろん世界は知れば知るほど複合化していくのですが……)。

 

参考文献:

ニクラス・ルーマン 著、土方透、大澤善信 訳 (2016) 『自己言及性について』ちくま学芸文庫

発達障がいに対する3つのアプローチ

近年、発達障がいと見なされる人が増えてきています。私も最近、発達障がいについて自分なりに理解を深めてきました。発達障がいの深い原因追及については今回は避けて、どのようにアプローチすれば良いかについて考えてみました。

 

私が発達障がいに対するアプローチとして重要だと思ったアプローチは以下の3つのアプローチです。

 

(1)心理学的アプローチ

(2)社会学的アプローチ

(3)人類学的アプローチ

 

(1)心理学的アプローチ

発達障がいの主な原因は脳内の神経の発達の遅れです。その個人という心理システムに対して心理学的なアプローチが必要ではないかというのが私の考えです。ここで私は凡庸な表現になりますが、人間の「心」をmindとheartに分けたいと思います。mindとは認知特性のことであり、思考に関する「癖」のことです。このmindに異変があるのが発達障がいの「特徴」だと思われます。その思考の癖から特殊な行動という明示的な表現を行ってしまいます。そういった思考の癖に自分で「気づかせる」ことが大切かと思われます。従来の心理的カウンセリングもこのアプローチに該当すると考えられます。また、発達障がい当事者ができていないことを必要以上に叱責せず、できなかったことをできた段階で褒める必要があります。そしてheartを温めてやる必要があると思います。頻繁に発達障がいの当事者である人というのは傷つきやすく、否定されやすく、成功体験も少ないため、自己肯定感が低いものです。その自己肯定感を高めてやり、「情」のこもったアプローチをとっていくのが先決かと思われます。

 

(2)社会学的アプローチ

しかし、個人内心理のみを見ても、事態はよくならないと思われます。発達障がいの主要な原因は脳内の構造でしょうが、そこに「愛着」をはじめとした社会的要因が重なっている(あるいは増強させる要因である)ことも指摘されています。社会とは乱暴に言うならば、「関係」から成り立つシステムのことです。その関係性を豊かにしていくことが発達障がいで起こる「生きづらさ」を解消するための良質なアプローチだと思います。具体的には何でも本音で話せる「安全基地」の設定、発達障がい当事者に対して、他者からの働きかけの様式を変更すること、単純肯定もせず、しかしながら単純否定もしないということです(「否定」と「批判」は似て非なる概念です)。家族や友人をはじめとした「社会」がコミュニケーション方式を変容することが、発達障がいで苦しむ当事者の成長のきっかけとなるかもしれません。

 

(3)人類学的アプローチ

これらを踏まえ、人類学的アプローチが必要ではないかというのが私の愚見です。言うならば、「当事者研究」によって、発達障がい当事者がどのような場面で生きづらさを感じているのか、それに対して当事者はどのように感じているのか、成功体験はあるのか、それに導くためにはどのような手段が取れるのか……などなど当事者の「語り」を分析し、「物語」を創ることが重要ではないかと感じています。このとき、共感的な他者が発達障がい当事者の語りを真剣に聞き、未来をどのように変えていくかということが大切かと思われます。過去の経験を現在に結び付け、過去を否定的に見ないで、肯定的にとらえさせる「材料」として考えていく必要があります。それにより、発達障がい当事者やその関係者の未来は変わっていく可能性が高まります。

 

1人で抱える問題も、2人で抱えれば楽になります。2人では重いものも、3人4人……と増えていけば、問題は「問題」でなくなるかもしれません。「発達障がい」ということばに惑わされず、1つの「個性」としてみなす態度が社会に広がればと思います。発達障がい当事者の「心理」に巻き込まれた人間たちが新しい「社会」を築き、「人類」として共存していくことも十分に可能です。決して、発達障がいに対して悲観的にならないようにしなくてはいけないと考えられます。困ったときほど、冷静に考える癖をつけなくてはいけないということを自戒のことばとして残しておきます。

 

参考文献:

岡田尊司 (2009) 『アスペルガー症候群幻冬舎新書

岡田尊司 (2012) 『発達障害と呼ばないで』幻冬舎新書

杉山登志郎 (2011) 『発達障害のいま』講談社現代新書

トリイ・ヘイデン 著、入江真佐子 訳 (1997) 『よその子』早川書房

山崎晃資 (2005) 『発達障害と子どもたち』講談社α新書

 

情報と知識-物語というプロセス-

最近、「情報」と「知識」を弁別して考える必要があると考えるようになりました。生徒に指導する際、これらを区分けしないと上手くいかないと思うようになったからです。

 

情報とは、乱暴に言えば、事実の集合体のことです。言語を中心とした情報は世の中に恐ろしいほど数多く溢れています。

 

しかし、それはあくまで「情報」であり、これを「知識」にする必要があります。

 

情報を情報のまま、人間の頭に取り入れても、それは実際に活用することはできません。

 

情報を自分の実感の込めた知識にすることによって、人間は新たな行動をすることができます。

 

ではどうやって情報を知識に変えることが可能になるのでしょうか?

 

ここからは関連性理論やルーマンの理論に依拠した愚見ですので、私は文章に責任は持ちますが、オリジナリティを名乗る資格はありません。

 

知識の生み出し方ですが、過去の情報と新たな情報を組み合わせることにより、知識になるというのが私の意見です。

 

その際、情報と情報をつなぐ役割を果たすのが「感情」だと思われます。

 

ある情報を手にしても、それに「感動」しなければ、頭に残らないのではないでしょうか? この「頭に残る」というのは、必ずしも精度を保ったままの想起は前提とはしていません。ふとした瞬間に頭によぎる「想起」も考慮しています。

 

世の中には「パクリ」が溢れていると言われますが、完全に0から生み出した知識とは果たして存在するのでしょうか?

 

人は誰しも、何かに依拠しながら発想を行うものです。

 

ですので、0から生み出す知識という言語使用はそもそも適切ではないのかもしれません。

 

少なくとも0.00……1以上は既存している情報に新たな感動をもってして、「アイディア」も「知識」も生まれるのではないでしょうか?

 

以上が私の「知識」に対する愚見です。この「知識」を習得するために、人間は「物語」を必要とするというのが私の結論です。

 

「物語」とは必ずしも文学作品である必要はありません。自身にとって感動できる状態に保たれた情報は全て「物語」の原型をとどめていると思います。

 

情報を感動をもってして知識に変えるプロセスそのものが「物語」というのではないかというのが私の意見です。

 

好きなアーティストの歌詞に共感するのも「物語」を通じて新たな「知識」を手にした瞬間でしょうし、美術作品にふと目を奪われるのも「物語」という過程による「知識」の習得の瞬間だと思っています。

 

そう考えると、人間は成長するためには新聞も本もインターネットも、単なる媒体に過ぎず、本当に必要なのは「物語」ではないでしょうか?

 

情報を知識に変える物語……つまり感動するために何より重要なのは「感性」なのかもしれません。

 

参考文献:

ルーマン 著、佐藤勉 訳 (1993)『社会システム理論(上)』 恒星社厚生閣

Wilson. & Sperber. 2012. Meaning and Relevance, Cambridge.

不安定なコミュニケーション

拙著『教師に向けた「輝く英語教育を夢見て」』でも書いたことですが、英語教育における「コミュニケーション」は安定性より不安定性を重視すべきではないかと考えています。

 

英語教育におけるコミュニケーション観は「伝わる」あるいは「伝えなければならない」ことが重視されすぎていると思います。

 

何かにつけて「評価はどうするの?」と聞く研究者もいるようですが、コミュニケーションにそもそも評価など必要なのでしょうか?

 

コミュニケーションはそもそも完全なものではありません。

 

関連性理論のことばを借りれば、コミュニケーションにはweakなものからstrongなものまであり、スペクトラム的にとらえられる事象なのです。

 

相手の言っていることが100%理解できるとは限りません。というより、自分の「伝えたいこと」が自分でも100%理解できるかと言われると、誰が自信をもってYES.と言えるでしょうか?

 

コミュニケーションは不完全なものです。ですので、もっとコミュニケーションの「不安定性」に目が向けられても良いと思います。

 

そこで外国語という言語が重要な役割を果たすのではないでしょうか? 日本語では「当たり前」のように「伝わる」と考えてきたコミュニケーションも、外国語を使用すれば、「伝わらない」ことが多くなってきます。

 

その苛立ちやもどかしさを学習者に体験させることが重要だと、私は思います。

 

平田オリザさんの『わかりあえないことから』でも書かれていたように、人間は「伝わらない」という体験から「伝えたい」という意思を生むものです。

 

私がこれを実感したのは、以前勤めていた学校で「伝わらない体験」を数多くしたときです。授業をしても、生徒たちはこちらに耳を傾けず、「私はここにいるんだけど……」と思ってしまう毎日でした。その失敗(ということばで片づけられるものではありませんが……)体験から、私は「授業を通して伝えたい」と思うようになりました。

 

そこから、生徒に伝わるにはどうすれば良いか……? という発想を持つようになり、今日に至ります。

 

そうした経験から、コミュニケーションを不安定なものとして捉え、学習者に「伝わらない体験」をさせることが重要だと、私は考えています。

 

そうすれば、学習者の中に、「伝えたい」という思いが芽生えてくる可能性が高まります。

 

コミュニケーションをメタ認知させることにより、学習者たちはことばを大切にするようになります。ことばを暴力的でしか使用できない風に導くのではなく、ことばを使った豊かな生き方ができるようになるのではないでしょうか?

 

コミュニケーションと言うと、話し言葉のみが重点化されていますが、書き言葉によるコミュニケーションも重視されてよいと思います。

 

私は一年ほどライターの仕事をやってきたため(そしてこれは今後も継続するつもりです)、書くという行為によって、「思い」を伝えるということの重要性も痛感しているつもりです。

 

また、コミュニケーションと言うと、相互作用が前提とされていますが、自己との対話というコミュニケーションも成立します。例えば、日記のような形で、自分の思考・感情などを物理的世界に表出させ、それを自分で客体化する方法もあるわけです。

 

となると、コミュニケーションの教育で重要なのは、「汝自身を知れ!」ということではないでしょうか?

 

自己をことばを通じて見つめさせるのが、コミュニケーション教育の根幹ではないでしょうか?

 

ことばとコミュニケーションについてもっと考えたいと思った夜でした(本来は、これに「文化」という要素も取り入れるべきだと私は考えていますが、それについてはまだまだ研究の途中ですので、今回は割愛します)。

言語の有機性-『一般言語学講義』から考えたこと-

遅ればせながらソシュールの『一般言語学講義』を読了しました。読もうと決めて、実に10年間放っておいてしまい、不勉強を重ねたことをここに反省します。

 

ソシュールの『一般言語学講義』には言語学の祖先的な遺産的意義があると言われ、研究が進んだ今日の言語学の世界では、少し古臭いと思われるようです。しかしながら、それだけでこの大著を読まないのは不誠実だと思います。

 

今回の記事では、私が『一般言語学講義』を読んで考えたことをまとめたいと思います。

 

(1)言語は有機的な実在である

(2)言語≠国家≠文化

(3)意味の概念の重要性

 

(1)言語は有機的な実在である

 

ソシュールは、言語を話者の精神的な介入を拒む実在として捉えています。言語が通時的共時的に進化をたどったのは、人間の意のままではなく、独立して起こった事象であり、言語を人間とは切り離したものとして捉えることを推奨しています。

 

これを強引に英語教育に結び付けるならば、英語という言語とコミュニケーションの関係性についてもっと思慮を入れた考察がなされる必要があると考えられます。

 

英語教育と言うと、無批判的に「コミュニケーション能力の育成」という人が多いですが、言語そのものは人間の精神とは独立した実在として捉えるならば、無理やりコミュニケーションに結びつける必要はないのではないかと思わされます。

 

もっと英語という言語そのものに対する興味を湧き起こさせ、英語の持つ通時性と共時性について学ぶ時間が必要ではないでしょうか?

 

具体的には、英語の変遷を文学作品を通して教示したり、日本語との比較により、英語そのものに対する理解を従来の教育観より深める必要があります。

 

しかし、注意すべきは、言語に優劣性はないという事実です。愛国者ならば反対するかもしれませんが、どの言語も同位的な価値があり、どの言語かが他の言語よりも優れている/劣っているなどというのはナンセンスです。

 

ですので、いくら母語であるとはいえ、日本語を中心とした理念を置き、その周辺に英語学習を位置づけるのは「?」です。英語と日本語を同位的にみなすための英語教育が必要とされます。

 

(2)言語≠国家≠文化

 

先ほどの話ともつながりますが、言語というのは人間の手を離れて輝く実在です。ですので、ソシュールも言っているように、言語に人種性や民族性を結び付けるのはいかがなものかと思います。

 

すなわち、言語=国家という乱暴な定式は成り立ちません。国家というのはあくまでシステムであり、そのシステム内で「国語」という言語種が生み出されたにすぎません。

 

同じように、言語=文化という乱暴な定式も成り立ちません。ソシュールは本書の中で、「方言」について詳細な分析を行っていますが、同じ言語共同体内で異なる文化が存在することはもはや不思議なことではありません。日本語を見ても、アイヌ琉球というう独自の文化があり、それを同化させることは学問的にも倫理的にも暴力的な行為です。

 

言語という実在を、他の実在から切り離し、独立したものとしてみなすことで見えてくることがたくさんあるのでは? と思わされました(そして、これはこれまでの私の言語観とは大いに異なる思考方式であったため、非常に啓発されました)。

 

同様の言語観の持ち主として一番に思い浮かぶのが、ノーム・チョムスキーですが、彼よりはソシュールの方が言語をマクロ的な視点から考察しているという印象を、私は受けました。

 

(3)意味の概念の重要性

 

さて、『一般言語学講義』の課題でもありますが、「意味」の概念が不明慮だと思わされました。

 

「意味」とは心理学的にも、人類学的にも、社会学的にもかなり古くから考察されている概念であり、これを抜きにした言語研究は果たして意義があるのかと思ってしまいます。

 

もちろん、単純に辞書的な意味ならば、考察はそこで終わります。これからの言語研究に必要なのは、「意味の意味」を考察することです(ソシュールも「意味」概念については不明慮な記述のまま残しています)。

 

従来の言語学に認識論的な考察を加え、言語と意味の関係についてもっと考える必要があるのではないでしょうか?

 

人間は意味をつける生物です。そのメディアとして言語は大いに寄与します。だったら、言語と意味についてさらなる考察がなされても良いのではないかというのが私の意見です。

 

ここでも、「意味」を言語そのものに関する思慮を軽視せず(つまり、強引に言語使用やコミュニケーションの際の「意味」に話をもっていかず)、言語特有の意味について深く考える必要があるのではないかと思いました。

 

言語とは人間が生み出した財産ですが、人間の手を離れて自由に動き回る有機体でもあります。この古典的なポイントを踏まえ、言語研究も言語教育研究もさらなる発展がなされるべきではないでしょうか?

 

参考文献:

フェルディナン・ド・ソシュール  著、小林英夫 訳 (1940) 『一般言語学講義』岩波書店