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平和にのんびり英語教育

香川県のフリーランスjackerのブログです。

教育とイマジネーション

私も30歳になり、20代の頃とは教育観が少し変わってきているのを実感しています。

 

最近、特に心掛けていることは「10年後の生徒に語りかけること」です。

 

これは大塚謙二先生の『教師力をアップする100の習慣』に書かれてあって、印象深かったことです。

 

今・ここの生徒のみならず、10年後生徒がどのように「生きて」欲しいかを想像した語りかけをすることが大切だということです。

 

私が昔の勤務校で、元校長先生に呼び出され、「もっと真摯な態度で生徒に向き合ってほしい」と言っていただいたことも、今では素直に受け止められます。

 

結局、教育において一番大切なことは「イマジネーション」ではないかと思います。

 

イマジネーションとは、起こりえない「仮定の世界」と実際に起こっている「現実の世界」の論理を合わせていくことだと考えています。

 

もちろん「現実の世界」は非合理的ですので、合理性を重視した「仮定の世界」では対応できない事態も多いでしょう(というよりそのほうが多いと思います)。

 

しかしながら、現象の上位に「起こりうること」と下位に「起こりうること」を頭で想像することができるのは、教師にとって大切な資質ではないかと思っています。

 

現象はマグマのように連続する概念ですので、上位と下位という「程度問題」に持っていくには、科学的な素養が必要とされます。

 

ただ、上位と下位という程度問題から零れ落ちる「可能性」に目を向けられるには、文学的な素養が必要になってきます。マグマの世界をマグマのように捉えながら、そこから抽象したうえで、具体的な語り方ができる力と言えばわかりやすいでしょうか(全然わかりやすくない)。

 

そうしたイマジネーションをベースに、生徒の未来にまで想像することのできる力が、教師には必要ではないかと、最近切に思っています。

 

そのためには、教師は生徒とお友達関係ではいけないという帰結につながるのも当然だと思います。

 

まあ、これも30歳という年齢になってからわかったことですし、最近、「勉強法」の本を執筆したために、「この生徒が将来生きていくためには何が必要なのか」なんてことを多少は考えられるようになったからだと思います。

 

生徒の良い部分を引き出すのはもちろん大切なことです。その根底は変えてはいけません。しかしながら、生徒の良くない部分にまで注意を払い、それをいかに「軽減」できるかも必要だと思い直すようになりました。

 

ただ、人間は根の部分は変わらないものです。根の先にある枝や葉を枯らすことなく、新しく芽吹けさせるのが教育ではないかと思います。

 

そのためには、教師が生徒をコントロールしようとしてはならないと思います。あくまで、生徒が自分自身で「気づく」まで、教師は勇気づけるしかできないのではないでしょうか? 「教育」と「矯正」は異なるものです。

 

重松清さんの『青い鳥』の中で、村内先生が言っていたように、「教師はただ生徒に寄り添うだけしかできないかもしれない」というのは説得力があります。『教育人間論のルーマン』でも、「学習者を<教育>することはできるのか」という問題意識の下、教師の向かうべき姿について考えられています。

 

教師ができることと言えば、生徒の可能性に目をやり、向かうべき姿を一緒に想像してやり、そこへ静かに「一緒に向かう」ことだけなのかもしれません。

不登校について考えたこと

社会問題として、不登校児童・生徒の増加が挙げられます。通信制の学校の増加が端的にそれを表しています。どうして不登校児童・生徒は増加したのか、今回はその要因について考えたいと思います。

 

私が考える不登校児童・生徒の増加の要因は以下の通りです。

 

(1)グローバリゼーションと情報社会の加速化

(2)新自由主義的な資本主義経済システムの暴走

(3)均一化を求める日本文化の名残

(4)過酷な環境

(5)追い詰められた心理(アイデンティティの喪失)

 

(1)は2000年代以降加速化された世界態勢です。時空の圧縮とテクノロジーの発展により、世界はこれまでとは違った形を見せるようになりました。これにより、(2)が増強されます。国際競争の激化という流れの中、日本社会でも、競争を重視する新自由主義的な資本主義経済システムが過度な暴走を行うようになりました。それが(3)という従来の日本文化システムと負の相互作用を起こします。均一化を求める従来の日本独自のムラ文化の名残により、日本に住む人々は競争に追いつかなければならないという焦燥感に襲われます。それらが相互作用し、(4)につながります。主に学校と家庭という要素が挙げられますが、競争の画一化という学校教育システムの変容により、学校に適応できなくなる児童・生徒が増加したものと思われます。教師たちは多忙の日々に巻き込まれ、児童・生徒たちと対話が困難になっているのかもしれません。また、自身たちのアイデンティティを守るために、児童・生徒たちは他者に牙を向けているのかもしれません。従来の居場所である学校が「安全基地」として機能しなくなると、家庭に責任が押し付けられます。家庭も(1)~(3)の影響を受けているため、児童・生徒たちと人間的な温かい関係を築きにくくなっているのかもしれません。そして、(5)に最終的に向かいます。追い詰められた児童・生徒たちは自分たちの失われたアイデンティティを守るために、自分の殻にこもるというアプローチしか取れなくなってしまっているのかもしれません。

 

(1)や(2)は経済学者たちがグローバリゼーションと情報社会の弊害について、きちんと正直に語り、そこから資本主義以外の生き方を提示する必要があります。(3)は人類学者たちが日本文化を共時的通時的に見つめなおし、解決策を提案する必要があります。(4)は教育学者たちと行政が連携し、学校を過酷な環境から変革する必要があります。また、学校と家庭が連携し、児童:生徒たちの「居場所」としての学校について再考する必要があります。(5)は心理学者たちが若者の個人内心理について分析し、それをベースに若者に寄り添うためのアプローチを考案する必要があります。方法論として、心理学者たちと社会学者たちが共同して、当事者研究を基に、個人内心理システムとマクロ的な環境をつなぐ架け橋について考えることも重要です。

 

不登校問題というのは、21世紀になってから特に加速された「物語」です。これを科学的なアプローチのみならず、文学的なアプローチから見つめなおすことも大切なのかもしれません。

 

参考文献:

青田進 編著 (2008) 『私が不登校になった理由』日本教育研究センター

千葉孝司 (2014) 『不登校指導入門』明治図書

C. A. カーニー・A. M. アルバーニ 著、佐藤容子・佐藤寛 監訳 (2014) 『不登校認知行動療法 セラピストマニュアル』岩崎学術出版社

組織について-『マネジメント』と複雑系から考えたこと-

人間は成長すると、組織の中に属することがほとんどです。現在、多様な生き方が認められるようになってきましたが、それでも組織の中で生きることが前提となっています。組織論については、ドラッカーの『マネジメント』が有名であり、私も遅ればせながら読了しましたが、読中、違和感を抱きつつけていました。私が持った『マネジメント』に対する違和感は以下の通りです。

 

・人間を機械的に扱っている

・人間の持つ相互作用性を無視している

 

これら2つは相互に連動するものです。まず、人間は感情を持った動物であり、機械ではありません。人間には創造性という武器があり、機械にはこの能力が(現在のところ)ありません。『マネジメント』におけるこのような「繊細さ」を無視した議論は有効ではないと感じました。人間を一律に「管理」するのは、そもそも可能なのかと思わされます。

 

もちろん、思考の内側で、人間を完全に描写するのはほとんど不可能です。人間理解について考える際、機械のような記述になるのは仕方ない部分はあります。しかし、『マネジメント』にはそのような譲歩に関する記述はなく、単純に機械的なモデルに依拠しすぎているように読み取れます。

 

次に、人間は相互作用をしながら生きていきます。組織で考えても、上司に対して、反旗を翻す部下も当然いるわけです。『マネジメント』ではこの点がほとんど考慮に入れられていないように感じました。人間は相互作用しながら、お互いに影響を受け与えながら生きていくものです。

 

以上のポイントは科学的管理法と呼ばれる『マネジメント』の持つ限界点なのかもしれません。これらのポイントを乗り越えるために「複雑系」の議論が有益だと思いました。

 

複雑系では、人間と人間の相互作用による「多様性」が重視されており、組織の複雑性や複合性をより適切に描写できると感じました。

 

複雑系では、人間の個体群を1つ以上の塊から捉え、それを「システム」と呼んでいます。

 

このような「システム性」が組織を描写するうえで重要な要因ではないでしょうか?

 

人間は個体で存在しているものの、個体のみで存在「意義」をもたらすかと言われれば、首をかしげざるを得ません。

 

カール・マルクスも言っていたように、人間は類的な存在であり、社会的な活動をベースにしなければ、人間らしいとは言えないのかもしれません。

 

人間を(いかなる単位であろうと)集団的なシステムとみなし、その間における齟齬や矛盾をも取り入れた「組織論」が必要ではないかと考えました。

 

もちろん、組織に対して、そういった「反発」ばかりを重視すると、それはほとんど無政府主義(アナーキー)の思想に近くなり、組織の均衡はもたらされません。

 

齟齬や矛盾を前提としながら、自らのシステムを洗練させていくのが組織という大きなシステムの役割ではないでしょうか?

 

そうすると、組織人に必要なのは、凡庸な表現になりますが、組織の洗練のための資源を作り出すことに他ならないでしょう。

 

ただ単に上司の愚痴を言うだけでなく、組織全体をよくするために自分に何ができるのかを少しずつ考えるのが、組織の中で生きるための最大の意義なのかもしれません(もちろん、それを困難あるいは不可能にさせる独裁的な管理が横行しているのも事実です)。

 

私はフリーランスという立場で生きていますが、組織が社会にもたらす影響を考えれば、組織についてのメタ認識が必要だと思い、今回のような駄文を書き連ねました。

 

参考文献:

P.F.ドラッカー著、上田惇生編訳 (2001) 『マネジメント 基本と原則』ダイヤモンド社

ロバート・アクセルロッド、マイケル D.コーエン 著、高木晴夫 監訳、寺野隆雄 訳 (2003) 『複雑系組織論』ダイヤモンド社

発達障がいと創造性

発達障がいとみなされている人が増えています。医学の発展上、仕方ないのかもしれませんが、その数の増大には驚愕に値するものがあります。

 

一見、マイナスに見える発達障がいですが、ある特殊な能力を持った集合体とも言われています。

 

それは「創造力のある人たち」だということです。

 

これは「サヴァン症候群」としても知られています。映画「レインマン」やドラマ「ATARU」の主人公がそれを象徴しています。

 

発達障がいと言われている人たちはどうして創造力を発揮できるのでしょうか?

 

それは以下のようにまとめられると思います。

(1)1つのものしか見えなくなる特性

(2)「当たり前」に対する鋭敏な知性

 

(1)1つのものしか見えなくなる特性

 

発達障がいとみなされている人々は、凡人では考えられない集中力を1つの特定のものに発揮すると言われています。

 

ウィトゲンシュタインのエピソードをあげましょう。彼は、言語に特異的なこだわりを持ち、論理学の話になると、一方的に何時間でも話し続けたと言われています。

 

ウィトゲンシュタインは奇行も多かったようですが、その並外れた集中力は20世紀最大の哲学者の異名を獲得しました。

 

ウィトゲンシュタインは「正しい見方」を持つことに執着したようです。それは彼の哲学に大いなる影響を与えています。

 

世界はこうして存在しているが、我々は同じように世界を見ているのだろうか…こうした問題意識が『哲学探究』を生みました。

 

この1つのものしか見えなくなる特性は、しばしば他人との衝突を生みますが、「使い方」次第で歴史的な遺産を残すこともあるのです。

 

(2)「当たり前」に対する鋭敏な知性

 

人間は「当たり前」のネットワークの中に生きています。「常識」という名で我々を拘束する「当たり前」は人間の生き方に深く根を下ろしています。

 

発達障がいの人々は、一般的にその「当たり前」を嫌います。「普通」あるいは「正常」とみなされている文脈の中で生きることを望まない人々が多いのです。

 

ルイス・キャロルのエピソードをあげましょう。彼は通常の人間なら「おかしい」と思うであろう「儀式的行動」を重んじていたようです。

 

「火曜日は幸運の日」などと、非科学的な根拠のない「まじない」のようなものに意味を見出していたそうです。

 

また、ルイス・キャロルは「大人の社会」で生きることを拒みました。大人とのコミュニケーションがうまくいかず、彼の興味は子どもたちへと向いていきます。

 

彼は大人とは葛藤に苦しみましたが、「子どもと仲良くなれる才能」を発揮したようです。

 

このルイス・キャロルの特性が、『不思議の国のアリス』などに結び付いているのは、言うまでもないでしょう。彼は「当たり前」の生き方を拒み、自分の「癒し」を求めて生きた結果、子どもを主体とした名作を生み出したのです。

 

こうしてみると、発達障がいの人々というのは、「世界からこぼれおちた子ども」とみなせると思います。しばしば発達障がいの当事者たちに対する偏見は、彼/彼女たちを苦しめます。大人たちはそれを「順応力」がないと責め立てます(私の経験上、教育関係者に限って、こういう人が多いようです)。

 

しかしながら、「環境」が彼/彼女たちの良い点を肯定的に認めめれば、「天才」というラベルに変わることが、エピソードで分かったと思います。

 

もちろん、科学の発展による「過度なラベリング」は問題を起こします。私個人の意見としては、例えば現在「天然」や「頑固」と言われている人たちも、将来「〇〇症」に置き換えられるのではないかと懸念しています。

 

お互いの差異を認めた上での平等という、1人1人が快適に生きるための基礎を、私も忘れてはいけないと思いました。

 

参考文献

綾屋紗月・熊谷晋一郎 著 (2008) 『発達障害当事者研究』医学書院

岡南 著 (2010) 『天才と発達障害講談社

マイケル・フィッツジェラルド 著、石坂好樹・花島綾子・太田多紀 訳 (2008)『アスペルガー症候群の天才たち』星和書店

 

「意味」について

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

 

私事で恐縮ですが、本年2017年は様々な占いによれば、「2008年頃から始めた努力の結果が出る年」らしいです。

 

2008年と言えば、私が病気と闘いながら、卒業研究を進めた年でした。

 

単純な私は、それを真に受けて、今年を「研究の整理の年」と定めることにしました。

 

そこで、大学の卒業研究以来、ずっと関心を持っていた「異文化理解」について研究を暫定的にまとめるのが、今年の目標です。

 

さて、私は2014年頃からルーマンを読み始めましたが、衆目知るところのように、単純に難しいと思っていたのですが、ルーマンはポイントを押さえれば、非常にわかりやすいことを言っているということに、去年気づきました。

 

また、私の脳の構造上、抽象的なものとシステマティックなものは受け入れやすいということにも気づきましたので、正月休みを利用して、ルーマンの勉強を再開することにしました。

 

そこで、ルーマンの「意味」や「ゼマンティク」の概念が、異文化理解を考える際に、非常に有益だとわかりましたので、今回はルーマンの「意味」や「ゼマンティク」について学んだことをまとめたいと思います。

 

私なりの理解(誤解)ですので、ご興味のある方は是非ともご自身でルーマンに関する著作をお読みください(『ルーマンの社会システム理論』は「比較的」読みやすい入門書でした)。

 

*****

 

ルーマンによれば、「意味」とは簡単に言えば、「現実と潜在的可能性をつなぐ架け橋」のことです。意味によって、現実からある可能性へと「志向」され、選択を強制します。

 

分かりにくいと思うので、具体例で示します。例えば、付き合っている彼女がいるとします。その彼女が家に帰ってきたとき、いつもと様子が違うことに気づきます。笑顔にハリがなく、声のトーンもいつもと違う…など、この彼氏は彼女という現実に「意味付け」を行ったとされます。それは、彼女の様子という現実に、「いつもと様子が違う」という可能性を結び付けたということです。

 

さらに、彼氏は「何かあったのかな?」と想像します。このように、意味は現実と可能性を結び付け、さらなる選択を強制するのです。もちろん、別の想像を働かせることもできるでしょう。仮に彼氏が鈍感な人ならば、いつもの様子と異なることに気づかないかもしれません。このときは、先ほどとは別の意味を結び付けたということになります。

 

では、この「意味」はどのようにもたらされるのでしょうか?その意味に方向づけを与えるのが「文化」であり、それがコミュニケーションにおいて使用される際、「ゼマンティク」と名付けられます。

 

「文化」というのは「日本文化」のような静態的な概念として捉えることも可能ですが、ある程度の一貫性はあるものの、随時更新される動態的な概念として捉えることが大切です。

 

また、「日本文化」という考え方は、文化がこの世に存在するという考え方で、「文化本質主義」と言われます。一方、人間には見えないものの、人間を形成するために重要な役割を果たす意味では、文化は「文化構築主義」と言われます。

 

市井の「文化」概念は前者の文化本質主義が一般的でしょうが、後者の文化構築主義のような批判的な考察も必要とされます(詳しくは拙著『教師に向けた「輝く英語教育を夢見て」』などをご参照ください)。

 

 

その文化がコミュニケーションの過程で使用されるようになるとゼマンティクとなります。これは古くから活用されている「知恵」という言い方もできるでしょうし、単純に「知識」という言い方でも良いと思います。

 

そうして意味のストックであるゼマンティクから可能性を選択しながら、我々はコミュニケーションを行うわけです。この際、その可能性は「意味」という形で現れます。

 

ここで強引に異文化理解に当てはめるとすると、「異文化を理解する」というのは、そもそも可能なことかと言われると、首をかしげざるを得ません。

 

そうではなく、自身の活用できるゼマンティクを成長させていくことこそが、異文化理解ではないでしょうか?

 

他者とのコミュニケーションにおける、あらゆる「可能性」に目をやることができ、意味付けを行えること…これこそが異文化理解ではないでしょうか?

 

そうなってくると、異文化理解と他者理解はさらに接近したものとして捉える必要が出てきます(レヴィナスも読んだ方がいいかもしれません)。

 

*****

 

私なりの解釈を付け加えましたが、異文化理解、ならびに異文化理解教育とは、「他者への思いやり」や「思いやり教育」のように思えてなりません。異文化理解が「上手」な人は、他者理解も「上手」でしょう。

 

そう考えると、異文化理解教育とは、「生きる力」を身に着けるために、さらに重視されるべき事象なのかもしれません。

 

参考文献

ルーマン著、佐藤勉訳 (1993)『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣

ルーマン著、徳安彰訳 (2011)『社会構造とゼマンティク(1)』法政大学出版局

ルーマン著、土方透・大澤善信訳 (2016) 『自己言及性について』筑摩書房

 

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ブログ運営者について

 

■名前:jacker(ジャッカル)

jackとjokerを合わせたものです。jackはトランプの騎兵隊の中で最弱の存在、jokerはトランプの中で最強の存在。最弱に見えて、実は最強…そんな存在を目指しています。

 

■職業:フリーランス(教師/ライター/小説家)

 

広島大学教育学部英語文化系コース卒業

 

■興味:

(1)英語教育のユニバーサルデザイン

(2)英語教育と平和教育

(3)文化に関する研究

 

(1)英語教育と特別支援教育の接続を試みます。私が経験したこととユニバーサルデザインの理論をつなぐことを目標とします。

(2)英語教育目的論としての「平和教育」について考えます。「平和」概念についても再考し、これからの英語教育が向かうべき姿を追求します。

(3)「文化」という概念を社会学文化人類学的に考察することを試みます。また、シリアスでない文化体系としてのカルチュラル・スタディーズに関する考察も試みます。

 

■資格:中学校・高等学校教諭一種免許状(英語)、実用英語技能検定準1級

 

■著作:

『教師に向けた「輝く英語教育を夢見て」』

『短編小説 世界最高権力者』

『男性に送る恋愛コミュニケーション術』

『中学生のための生きる力を養う勉強法』

『短編小説 風の少年』

 

 

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