風と雪

香川県のフリーランスjackerのブログです。

言語の有機性-『一般言語学講義』から考えたこと-

遅ればせながらソシュールの『一般言語学講義』を読了しました。読もうと決めて、実に10年間放っておいてしまい、不勉強を重ねたことをここに反省します。

 

ソシュールの『一般言語学講義』には言語学の祖先的な遺産的意義があると言われ、研究が進んだ今日の言語学の世界では、少し古臭いと思われるようです。しかしながら、それだけでこの大著を読まないのは不誠実だと思います。

 

今回の記事では、私が『一般言語学講義』を読んで考えたことをまとめたいと思います。

 

(1)言語は有機的な実在である

(2)言語≠国家≠文化

(3)意味の概念の重要性

 

(1)言語は有機的な実在である

 

ソシュールは、言語を話者の精神的な介入を拒む実在として捉えています。言語が通時的共時的に進化をたどったのは、人間の意のままではなく、独立して起こった事象であり、言語を人間とは切り離したものとして捉えることを推奨しています。

 

これを強引に英語教育に結び付けるならば、英語という言語とコミュニケーションの関係性についてもっと思慮を入れた考察がなされる必要があると考えられます。

 

英語教育と言うと、無批判的に「コミュニケーション能力の育成」という人が多いですが、言語そのものは人間の精神とは独立した実在として捉えるならば、無理やりコミュニケーションに結びつける必要はないのではないかと思わされます。

 

もっと英語という言語そのものに対する興味を湧き起こさせ、英語の持つ通時性と共時性について学ぶ時間が必要ではないでしょうか?

 

具体的には、英語の変遷を文学作品を通して教示したり、日本語との比較により、英語そのものに対する理解を従来の教育観より深める必要があります。

 

しかし、注意すべきは、言語に優劣性はないという事実です。愛国者ならば反対するかもしれませんが、どの言語も同位的な価値があり、どの言語かが他の言語よりも優れている/劣っているなどというのはナンセンスです。

 

ですので、いくら母語であるとはいえ、日本語を中心とした理念を置き、その周辺に英語学習を位置づけるのは「?」です。英語と日本語を同位的にみなすための英語教育が必要とされます。

 

(2)言語≠国家≠文化

 

先ほどの話ともつながりますが、言語というのは人間の手を離れて輝く実在です。ですので、ソシュールも言っているように、言語に人種性や民族性を結び付けるのはいかがなものかと思います。

 

すなわち、言語=国家という乱暴な定式は成り立ちません。国家というのはあくまでシステムであり、そのシステム内で「国語」という言語種が生み出されたにすぎません。

 

同じように、言語=文化という乱暴な定式も成り立ちません。ソシュールは本書の中で、「方言」について詳細な分析を行っていますが、同じ言語共同体内で異なる文化が存在することはもはや不思議なことではありません。日本語を見ても、アイヌ琉球というう独自の文化があり、それを同化させることは学問的にも倫理的にも暴力的な行為です。

 

言語という実在を、他の実在から切り離し、独立したものとしてみなすことで見えてくることがたくさんあるのでは? と思わされました(そして、これはこれまでの私の言語観とは大いに異なる思考方式であったため、非常に啓発されました)。

 

同様の言語観の持ち主として一番に思い浮かぶのが、ノーム・チョムスキーですが、彼よりはソシュールの方が言語をマクロ的な視点から考察しているという印象を、私は受けました。

 

(3)意味の概念の重要性

 

さて、『一般言語学講義』の課題でもありますが、「意味」の概念が不明慮だと思わされました。

 

「意味」とは心理学的にも、人類学的にも、社会学的にもかなり古くから考察されている概念であり、これを抜きにした言語研究は果たして意義があるのかと思ってしまいます。

 

もちろん、単純に辞書的な意味ならば、考察はそこで終わります。これからの言語研究に必要なのは、「意味の意味」を考察することです(ソシュールも「意味」概念については不明慮な記述のまま残しています)。

 

従来の言語学に認識論的な考察を加え、言語と意味の関係についてもっと考える必要があるのではないでしょうか?

 

人間は意味をつける生物です。そのメディアとして言語は大いに寄与します。だったら、言語と意味についてさらなる考察がなされても良いのではないかというのが私の意見です。

 

ここでも、「意味」を言語そのものに関する思慮を軽視せず(つまり、強引に言語使用やコミュニケーションの際の「意味」に話をもっていかず)、言語特有の意味について深く考える必要があるのではないかと思いました。

 

言語とは人間が生み出した財産ですが、人間の手を離れて自由に動き回る有機体でもあります。この古典的なポイントを踏まえ、言語研究も言語教育研究もさらなる発展がなされるべきではないでしょうか?

 

参考文献:

フェルディナン・ド・ソシュール  著、小林英夫 訳 (1940) 『一般言語学講義』岩波書店