平和にのんびり英語教育

香川県のフリーランスjackerのブログです。

不安定なコミュニケーション

拙著『教師に向けた「輝く英語教育を夢見て」』でも書いたことですが、英語教育における「コミュニケーション」は安定性より不安定性を重視すべきではないかと考えています。

 

英語教育におけるコミュニケーション観は「伝わる」あるいは「伝えなければならない」ことが重視されすぎていると思います。

 

何かにつけて「評価はどうするの?」と聞く研究者もいるようですが、コミュニケーションにそもそも評価など必要なのでしょうか?

 

コミュニケーションはそもそも完全なものではありません。

 

関連性理論のことばを借りれば、コミュニケーションにはweakなものからstrongなものまであり、スペクトラム的にとらえられる事象なのです。

 

相手の言っていることが100%理解できるとは限りません。というより、自分の「伝えたいこと」が自分でも100%理解できるかと言われると、誰が自信をもってYES.と言えるでしょうか?

 

コミュニケーションは不完全なものです。ですので、もっとコミュニケーションの「不安定性」に目が向けられても良いと思います。

 

そこで外国語という言語が重要な役割を果たすのではないでしょうか? 日本語では「当たり前」のように「伝わる」と考えてきたコミュニケーションも、外国語を使用すれば、「伝わらない」ことが多くなってきます。

 

その苛立ちやもどかしさを学習者に体験させることが重要だと、私は思います。

 

平田オリザさんの『わかりあえないことから』でも書かれていたように、人間は「伝わらない」という体験から「伝えたい」という意思を生むものです。

 

私がこれを実感したのは、以前勤めていた学校で「伝わらない体験」を数多くしたときです。授業をしても、生徒たちはこちらに耳を傾けず、「私はここにいるんだけど……」と思ってしまう毎日でした。その失敗(ということばで片づけられるものではありませんが……)体験から、私は「授業を通して伝えたい」と思うようになりました。

 

そこから、生徒に伝わるにはどうすれば良いか……? という発想を持つようになり、今日に至ります。

 

そうした経験から、コミュニケーションを不安定なものとして捉え、学習者に「伝わらない体験」をさせることが重要だと、私は考えています。

 

そうすれば、学習者の中に、「伝えたい」という思いが芽生えてくる可能性が高まります。

 

コミュニケーションをメタ認知させることにより、学習者たちはことばを大切にするようになります。ことばを暴力的でしか使用できない風に導くのではなく、ことばを使った豊かな生き方ができるようになるのではないでしょうか?

 

コミュニケーションと言うと、話し言葉のみが重点化されていますが、書き言葉によるコミュニケーションも重視されてよいと思います。

 

私は一年ほどライターの仕事をやってきたため(そしてこれは今後も継続するつもりです)、書くという行為によって、「思い」を伝えるということの重要性も痛感しているつもりです。

 

また、コミュニケーションと言うと、相互作用が前提とされていますが、自己との対話というコミュニケーションも成立します。例えば、日記のような形で、自分の思考・感情などを物理的世界に表出させ、それを自分で客体化する方法もあるわけです。

 

となると、コミュニケーションの教育で重要なのは、「汝自身を知れ!」ということではないでしょうか?

 

自己をことばを通じて見つめさせるのが、コミュニケーション教育の根幹ではないでしょうか?

 

ことばとコミュニケーションについてもっと考えたいと思った夜でした(本来は、これに「文化」という要素も取り入れるべきだと私は考えていますが、それについてはまだまだ研究の途中ですので、今回は割愛します)。