風と雪

香川県のフリーランスjackerのブログです。

「主体性」について

私は一時期、アクティブラーニングに関するブログを運営していましたので(現在、そのブログの権利を私は持っていません)、アクティブラーニングにおける「主体性」について妄想したことがありました。

 

「主体的に動け!」「自分で考えろ!」とはよく聞かれる説教ですが、そもそも「主体性」とは何なのでしょうか?

 

主体性の反対概念を考えていたところ、「消極性」は適切ではないと思うようになりました。

 

消極性が否定する「積極性」という概念にも、他者の影響から思考したり行動する要素が見られるためです。憧れの人がいて、その人を真似て「積極的」に動くというのは「主体的」なのでしょうか? それは「自分」というものを強く持っていることを本当に意味するのでしょうか? 私は必ずしも全てがそうとは限らないと思います。

 

とすると、「主体性≒積極性←→消極性」という式は適切ではないのかもしれません。

 

では「主体性」とは何なのでしょうか?

 

他の影響を受けず、自分の「意志」で動くということは一体何を意味するのでしょうか?

 

私が出した結論は……

 

そんなものないということでした。

 

人間は生きる歴史の中で、必ず何かの影響を受けるものです。独断的な判断だとしても、それは何かが「トリガー」になっていることがほとんどでしょう。

 

人間の言語が「たった1つの自分のものではない言語」であるのと同様、あらゆる思考や行動も、他の影響を受けていると言わざるを得ないのではないでしょうか?

 

では、話を戻して「主体性」とは何なのか?

 

それは「他者からの模倣や租借を行いながら、自分なりのパターンを築いていく」ことだと思います。

 

ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」の考えに私は肩入れするつもりはありませんが、人間は生まれ落ちたとき、ほとんど世界の「あり方」について知らないと思います。

 

「やり方」については遺伝的に形成されているかもしれません。しかしながら、「あり方」については「世界」を経験するまでわからないのではないでしょうか?

 

世界を経験するというのは、「生きる」ことに他なりません。とりあえず、生きた後で、世界について経験したというのが無難かと思われます。すなわち、「世界のことは死ぬまでわからない」ということです。

 

その「世界のあり方」について、自分の内側にどんどんパターンを取り込んでいくことが主体的に動くためのヒントになるかもしれません。

 

パターンは最初は単なる情報としてしか入力されていないのかもしれません。しかし、そのパターンに対する出力が頻繁になると、それは「行動様式」という「入力ー出力」という言語では表現できない事態となるでしょう。

 

参考:

jacker1223.hatenadiary.jp

 

そういった「行動様式」をつかんで「世界を知る」ことが「主体性」の正体としか、現在の私には言えません。

 

そこに「積極/消極」という要因を入れるのは、議論がかみ合わないのではないかと思った次第です。

 

とすると、主体性を養うためには、謙虚に世界について知っていくことが一番の近道かもしれません(もちろん世界は知れば知るほど複合化していくのですが……)。

 

参考文献:

ニクラス・ルーマン 著、土方透、大澤善信 訳 (2016) 『自己言及性について』ちくま学芸文庫