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「野郎ども」の労働はどうなる!?-『ハマータウンの野郎ども』を読んで考えたこと

およそ1ヵ月かかって、『ハマータウンの野郎ども』を読了しました。カルチュラル・スタディーズの名著ともいわれ、もともと興味があったのですが、ようやく読了しました。

 

この本では、英国の「ハマータウン男子校」という仮名の学校における「野郎ども」と呼ばれる集団を中心に、筆者が参与観察という手法を用いて、研究したものです。「野郎ども」とは「輩」という言い方もできるでしょうし、いわゆる「不良」に近いと思います。

 

筆者は「野郎ども」たちが英国にまとわりつく「階級社会」によって生み出されたものであり、その階級性と交わりながら、独自の文化を形成する、としています。

 

日本では「階級社会」とはなじみのないことばかもしれませんが、格差社会が拡大する日本も階級社会は遠い世界の話ではなくなってきています。

 

ここで注目すべきなのは、「野郎ども」の労働観です。「野郎ども」は労働に対して、「生き甲斐」のようなものを重視せず、簡単に言えば、金稼ぎに重点を置いた働き方をする、ということです。

 

それは「インフォーマルな文化」であり、学校という権力装置が受け持つ「フォーマルな文化」に対抗しながら形成されてきたもののようです。

 

これは日本でもありうる話ではないでしょうか? 学業に対しては反発的な態度を持つ学習者も、労働となれば能力を発揮し、社会に出てから活躍していくという生き方です。

 

しかし、ここである問いを立ててみました。

 

(問い)人口知能が発展する世界で「野郎ども」はどのような労働を行いうるのか?

 

人工知能の発展で、多くの職業が人間の手の負えないものになると言われています。従来、人間の「手」で行われてきた職業が、人工知能という存在に取って代わられる、ということです。

 

そうした世界の動きの中、仕事に生きがいを求めない「野郎ども」は果たしてどのように生きていくのでしょうか?

 

人工知能の発展により、これからは仕事以外の生き方に生き様を見せなくてはいけないという人もいます。仕事以外の趣味や余暇をうまく活用できる人々こそが、人工知能時代を「生き残れる」ということです。

 

私は安っぽいマーケティングのような話はしたくありません。また、人工知能に無批判的に迎合する研究者も軽蔑しています。ですので、あくまで「未来の可能性」という不確実性の中の話なのですが、人工知能の発展によって、多くの「野郎ども」が「生きる術」を見いだせなくなってもおかしくはありません。

 

「野郎ども」は労働(金儲けが主体的目的の労働)のために、学校へ反抗し、独自の文化を形成してきました。そのような「文化」は消滅してしまうのでしょうか?

 

ここで重要なのは「生きる」ということについて「野郎ども」に体験的に味合わせながら手ほどきをしていくことです。人工知能も一瞬で1から100まで上げられても、0から1は作ることができません。そのような「創造的な生き方」の醍醐味を味合わせる必要があるのではないでしょうか?

 

そのような「創造的な学び」を重視する実践者たちは数多く存在します。彼ら/彼女らの実践を参考にしながら、「野郎ども」も他の学習者も「生き甲斐」を味わえるような生き方ができるようなしくみをつくる必要があるのかもしれません。

 

さらに使い古されたことばですが、「人のために働く」という価値観を「野郎ども」に持たせる工夫が必要かもしれません。自分だけのためではなく、誰か大切な人のために「働く」という人間臭い価値観を重視すべきではないでしょうか?

 

人工知能の可能性は無限大なので、これからどのような世界が訪れるかはわかりません。しかしながら、人間が「人間らしく」生きることを変える必要はありません。人工知能の発展によって、そのような生き方を推奨する動きは強化されるかもしれません。文化を大切にしながら、人間らしく生きる方法を、我々は仮作していく必要があるのではないでしょうか?

 

参考文献:

ポール・ウィリス 著、熊沢誠山田潤 訳 (1996) 『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫

 

参考URL:

人工知能時代の人間の生き方は、古代ローマに学ぶべし」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51511?page=2