風と雪

香川県のフリーランスjackerのブログです。

生徒のこころを育てる--『贈与論』を読んで考えたこと

1.はじめに

 教育の世界に経済・経営の論理が拡大しています。特に英語教育の世界では、この傾向が強まっています。生徒は顧客で、教育はサービス業であるという理念です。しかしながら、教育とは本来、「人間を育てる」という営みであり、「財を作り出す」ことが目的の経済・経営と必ずしも論理が適合できるとは限りません。「金儲けができる人材」を育成することが、必ずしも教育の目的ではないということです。今回の駄文では、マルセス・モースの『贈与論』を手掛かりとして、優れた英語教師は何を生徒に<教育>するのか、何を<育てる>のかについて考えたいと思います。

 

2.贈与論

 アルカイックな地域を研究することによって、人間の根幹部分には「贈与」が働いていることが分かりました。「贈与」とは、贈り物を与え、それにお返しをすることによって、贈り物を交換することです。これは自然経済や功利主義的経済によって発展した「商品の売買」という形態よりは古代的であるかもしれませんが、そのような営みは現代の世の中にも引き継がれています。例えば、結婚指輪という物は、それを贈る人が結婚の申し出という「贈り物」を与えることであり、与えられた人は結婚の申し出に応えるという「お返し」をすることを成立させます。贈与という行為は、法的、経済的であるだけでなく、「宗教的」な営みであるとされています。アルカイックな地域では、「贈与」という行為に霊的な意味付けが行われており、単に商品を交換するという営みを超越したものである、とされています。

 

3.問い

 英語教育の世界で「贈与」を展開するにはどうすればよいのでしょうか?

 

4.結果

 優れた英語教師は「こころ」を生徒に贈り、生徒は「こころ」でお返しをします。

 

5.考察

 今回参考にしたのは、DVD『プロフェッショナル 仕事の流儀--中学英語教師 田尻悟郎の仕事』です。このDVDには、公立中学で英語教師を務めていた時代の田尻悟郎先生のライフヒストリーや授業の光景などが収録されています。田尻悟郎先生は、自身の「ターニングポイント」となる生徒とのコミュニケーションまでは、ひたすら「知識や技能」の贈与を目指していたように思えます。生徒に板書した英文を明日までに覚えるように強要するなどは、英語という「知識」を贈り、それに対するお返しを生徒から期待していたように思えます。また、田尻悟郎先生は、担当していた野球部の部員に対し、「まるで軍隊のようだ」と噂される「技能」を贈り、それに対するお返しを部員から期待していたように思えます。しかしながら、田尻悟郎先生は野球部の生徒に「頑張ってきたのは、先生への恨みでした」という発言を受け、自身のそれまでの教育観-いわば「贈与」に関する考え方-を改めます。そして、あるALTとの出会いにより、「授業はエンターテイメント」という発想に転換します。ここから、田尻悟郎先生は「精神」の贈与に転換したと分析できます。英語が苦手な生徒に対して、授業の中で個人指導を行うことは、「知識」を贈るというよりも、そこから生徒のやる気を引き出す仕掛けを目指していたように思えます。また、リーダー役の生徒が独りよがりな態度を持っていたことに対し、自分が実際に他の友人に行っている「行為」と類似した「行為」を田尻悟郎先生が見せることによって、そのときの「感情」を味合わせます。これらは田尻悟郎先生がそれまでの人生(教員生活のみならず、あらゆる生活の場面において)で培ってきた「精神」を凝縮させ、生徒に「贈り物」として届けようという指導を行っていたという風に解釈ができます。「精神」とは複合的な概念ですが、「こころ」と置き換えても良いでしょう。田尻悟郎先生の内面にある「こころ」から出てきた精神的な行為により、生徒の行為に影響し、生徒の精神の変容を引き出したというように考えることができると思います。従来、「行為」に焦点が活きがちだった心理学研究に対し、行為の背景にある「こころ」まで視野を広げる必要があるように考えられます。

 

6.結論

 この駄文では、ある優れた英語教師が自身の「こころ」を贈り、生徒が「こころの変容」というお返しをしたという「贈与」関係が認められるという結論に至りました。もちろん、現実問題として、知識や技能は重視されなければいけませんが、教育の目的は何もそれだけでなく、「こころを育てる」というような「人間的」な要因も忘れてはいけないと思います。こころの贈与のためには、まずもって(英語)教師が豊かなこころを持っていなければならず、それは情や教養、経験などによって培われるものであると考えられます。(英語)教師は自身の英語の学力を鍛えるのみならず、そのような自身の「人生経験」を豊かにする必要があるという文で、この駄文は締めくくらせて頂きたいと思います。

 

参考文献:

田尻悟郎、茂木健一郎住吉美紀 出演 (2007) 『プロフェッショナル仕事の流儀--中学英語教師 田尻悟郎の仕事』NHKエンタープライズ

マルセス・モース 著、森山工 訳 (2014) 『贈与論』岩波文庫