風と雪

香川県のフリーランスjackerのブログです。

声を聴かせて

小説家になろう」に投稿した短編小説です。是非ともお楽しみ頂けましたら幸いです。

 

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声を聴かせて

 

第1章 転校生

 

 4月7日。高校二年生の春がやってきた。俺は一年前、家の一番近くにあるこの学校を選んだ。進学率は結構よく、大学進学を目指す学生がほとんどで占められている学校だ。俺は二年生になった。一年のときに進学コースを選び、そこでは三年間クラス替えはない。いつもと同じメンツで、いつもと同じような他愛もない話で教室中が満たされる。

 始業式の日、担任が発表された。去年と同じ渡辺先生だ。理科の若い教師で、生徒からの信望は厚い方だ。俺はあまり彼とは話したことはないのだが。

 始業式が終わって、クラスに戻ってきた。渡辺先生が話し始めた。「今日から二年生だ。進学コースは一年も二年も三年も関係なく、受験生だから心して日々を送れ」いつもと同じ説教臭い語りだ。

 しかし、今日は様子がいつもと違った。渡辺先生が一通りの「説教」を熱弁した後、静かに告げた。「実はこのクラスに転校生が入ることになった」クラス中はざわめいた。去年と同じ顔触れのところに「新人」という新しい風が入ってくるのだ。皆、この宣告に歓喜の様子だった。「さ、入って」渡辺先生がいつになく丁寧な口調で言うと、1人の女子生徒がクラスに入ってきた。

 だが、クラスの皆はこの転校生の様子が変だということにすぐに気づいた。教室に入ってくるときもユラユラして、目をずっとつぶっている。俺は出席番号が二番だから、前の方に座っていたのだが、すぐにこの弱弱しい転校生の右手に棒のような何かがあるのに気づいた。

 渡辺先生が「さ、自己紹介して」と言うと、この何者かもわからない存在が静かに口を開いた。「相沢瑠奈といいます」その声は、ボリュームは小さいが、ふと何度も聞きたくなるようなきれいな声だった。髪は肩の長さくらいで、童顔だった。背も低い。相沢瑠奈と名乗ったこの少女は何かしどろもどろしていた。転校生というだけで、注目の的になり、平静ではいられないが、この少女は何か特別なものを持っているようだとクラス中が察していた。

 渡辺先生が少し力を入れて喋りだした。「えー、この相沢瑠奈さんは目が見えない」クラス中がざわつくのを、俺は前の方の席から感じた。「通常は養護学校に行くことになっていたのだが、どうしても進学がしたいということで、この学校に入った。この子のことをどうか、しっかりサポートしてやってくれ。いいな?」渡辺先生はそれを言い終わると、この転校生の手を紙コップを握るようなくらいの感覚でゆっくりと持ち、俺の前の席へと誘導していった。

 相沢瑠奈。このときは、この転校生が後に俺にある「ドラマ」を見せてくれるとは思いもしなかった。いや、クラス中、日本中でもそんな未来予測ができる存在なんていなかっただろう。しかし、それは先の話だ。

 渡辺先生がプリントを配る。俺の列の一番前、つまり相沢には手にしっかりと渡し、他の生徒には少し乱暴に手渡していた。後ろから、俺は好奇心旺盛のまなざしで相沢を見つめていた。しばらく相沢はプリントを握ったままだ。後ろから見ると、何か確認しているようにも見えた。そして数秒後、俺の方を振り向き、右手でギュっと握ったプリントを差し出した。差し出したというより、空中に置いたというべきだろうか。俺は少し戸惑ったが、すぐにプリントを受け取った。俺にプリントが無事に渡ったのが分かると、相沢は少しはにかむような笑みを見せた。俺は小さな声で「どーも……」と言った。誰にも気づかれないように目を横にだけやると、クラスメイトが苦笑いをしていた。俺は直感した。この相沢瑠奈は、これからつらい日々を送るだろうと。そして、そのしわ寄せとして、プリントを毎回大事そうに受け取らなくてはいけないのが俺だ。このときは仕方ないな……としか思えなかった。

 

 4月8日から授業が始まった。ここからが大変だ。教師は盲目の生徒に慣れているようには見えず、皆相沢に視線をやりながら授業をしている。小柄で声の小さい女の先生は、これでもかという位大声で授業をした。俺は後ろの席から相沢を見つめた。手は少ししか動いていない。それはそうだろう。ノートなんか取れないんだから。先生たちは相沢の近くに陣取り、授業をするようになった。先生たちも困惑している様子が見て取れる。それは俺だけじゃない。クラス中の皆が感じていることだということにもすぐに気づいた。

 しばらくは何もなかった。相沢はやはりというべきか、クラスでは完全に浮いていて、休み時間もずっと独りだった。俺は後ろの席の宇野という仲の良い男友達といつも喋るのだが、横で寂しそうに座っている相沢がみじめでならなかった。(おい、女共。誰か声をかけてやれよ……)俺はそう思ったが、その期待に応えてくれる女子生徒はいなかった。皆、一年ののときに出来たグループに固まって楽しくおしゃべりをしている。

 このクラスは進学クラスだから、休み時間の雑談の中にも進学の話が出てくる。「え? 大阪大学狙ってるの?」「昨日は勉強できなかった」女子生徒は「普通」の女子高生がするような会話より、自分たちの進学先のことで夢中のようだった。

 俺もその一人だ。俺は両親は健在なのだが、親は家ではいつも勉強の話ばかりしてくる。最初は子どもらしく、嫌々ながら付き合っていたが、その毒にだんだん侵されるから不思議だ。俺は勉強のことばかり考えるようになった。実を言うと、俺はこの進学クラスの中でも優秀な方だ。成績はトップクラス。体育だけは、幼少期からの運動音痴で克服できていないのだが、それ以外の通知表は五段階評価で4を下回ったことがない。俺は有名な大学に入りたいと思っていた。そうして、有名な会社に入る。それこそが幸せな人生だと信じていた。いや、信じ込まされていた。誰もそれに対して批判してこないのがその証拠だ。

 俺は学習態度も悪くなく、授業はきちんと聴き、ノートもしっかりと取る。そして、家に帰ったら、そのノートを「清書」する。これがその日の復習だ。そして、次の日の授業のめぼしを立てて、自分でノートを作る。これが予習だ。この三段階ノート方式で、俺は成績優秀な栄誉を守ってきた。他の友人にはこのやり方を薦めたことはない。いや、言いたくないのだ。これは俺だけの魔法の勉強法で、真似されると俺の特権が脅かされる。俺は成績優秀な自分に浸っていた。

 だからと言って、クラス委員位選ばれるようなリーダー性は俺にはなく、ただクラスでは影の薄い優等生だった。中学のときは、放送部に入部して、全国大会を目指した。しかし、中学三年間で賞を取れたことすらない。俺は三年の最後のコンテストの落選を聞いて、方を落とした。そして、その代替物として、勉強という生きる術を選んだ。中学の学習内容なんて、教科書を読めば、すぐに理解できた。それで、この学校に入学し、進学クラス選抜テストにも合格して、今に至る。俺は勉強という味方をつけて、友人にも囲まれ、順風満帆な日々を送っていた。

 4月10日、この日は春休み課題確認テストの日だった。俺は準備は万全で、コンディションも完璧な状態で家を出た。しばらく自転車で学校へ向かっていると、相沢がいた。あの始業式の日に見た棒は杖だったらしい。杖をつきながら、懸命に歩いていた。俺は相沢が自分の家の近くに住んでいたのか……と思う位で、もちろん話しかけやしない。俺は相沢の横を自転車で通り過ぎた。相沢ももちろん声をかけやしない。誰が通ったかなんてわからないんだから。

 春休み課題確認テストは国語・数学・英語の三教科で五十分ずつ行われる。テストが始まると、皆俺の方に注目した。いや、俺ではなく、俺の前の席を見ていた。相沢がいない。クラス委員になった山内が監督の教師に尋ねた。「相沢さん、どうしたんですか?」監督の教師は「相沢さんは別教室で試験だ」と淡々と告げた。ふーんと言う声が聞こえた。俺はそんなやりとりと耳を立てて聞きながら、国語の漢字ドリルに目をやっていた。

 テストが終わると、この日は午後から授業だった。午後から相沢が戻ってきた。いつもと同じ、独りぼっちで一日を送っていた。(お前からも声をかけろよ……)俺はそう思ったが、そんなことを口にするほど、おせっかいではない。

 4月11日。学校が始まって最初の週の終わりを告げるこの日。朝のショートホームルームで昨日のテストや結果が早くも帰ってきた。俺は学年で三位の成績だった。満足感に浸っていた。一位は決まっている。山内だ。彼女はいつも俺より先を進んで勉強している。すでに教師たちから推薦の話も入ってきているらしい。ショートホームルームが終わると、俺は山内のところへ行った。だが、山内は下をうつむいていた。「どうした?」と聞くと、山内は黙って下をうつむいたまま成績表を俺に押し付けた。結果は学年二位だった。いつも彼女が一位のはずなのに、おかしい。このクラスはある意味特権階級だから、このクラス以外で一位が出るとは思えない。しかし、そんな輩は検討がつかない。

 俺は何故か直感した。すぐに自分の席に戻り、後ろから相沢の机を盗み見した。偶然成績表が見えた。「一位」という文字が光っていた。相沢が一位だったのだ。俺は腹立った。俺はいつも二位で、山内がいつも一位という特等席がまさかこんな新入りにつぶされるとは……。

 一時間目の授業が終わって、休み時間のときにすぐに俺は山内のところへ行った。「相沢さんが一位らしいよ」そのときの山内の表情は言語では表現できない。恐らく、負けた……という言葉で脳が支配されていたのだろう。

 そこからクラスの女子たちの行動が変わった。授業中も教師に「もっと早くしゃべってください」とにらみつけながら告げるようになった。教師たちは相沢を見た。山内の仲の良い女子友達が言った。「このクラス、特進なのに他のクラスより授業の進度が遅いらしいですよ! そんなんじゃ勉強できない!」気の強い女子生徒たちの脅しにも似た願いに、教師たちは従うしかなかった。教師たちは口調を速めて受業を始めるようになった。

 クラスの女子たちは皆、山内のグルだった。山内が一位でなければならないのだ。山内はクラス委員で、成績もトップ。このクラスの代表なのだ。それがあのわけのわからない転校生のせいでかき乱されるのが苦痛でたまらないようだった。俺は相沢を見た。前は手を少し動かしていたのだが、もう動きをやめたようだった。

 俺の一声で始まった一部の女子生徒たちの陰鬱な雰囲気はすぐにクラス中に蔓延していった。体育の授業は、相沢は見学をしていたのだが、女子生徒が体育教師にかみついた。「どうしてあの子だけ特別扱いするんですか? クラス皆で楽しくやりたいのに、嫌です」体育教師は困った表情で言う。「あのな~ 相沢は目が見えないんだ。無理に決まってるだろう?」女子生徒たちは面白くないように、ふんと言って、体育教師の元から去った。

 七時間目、英語の授業の最初のときに、山内が英語教師に言った。「先生、毎回単語テストしましょうよ? そうしたら、皆の成績も上がりますよ!」英語の教師は女の少し天然の教師で、山内の提案にすぐに「いいわね」と言った。山内の言う「皆」に相沢が含まれていないのは理の当然だ。

 最初の週が終わった。4月12日の土曜日、俺は部屋の机の上で少し考えた。(相沢、これからどうなるんだろう?)しかし、すぐに(俺には関係ないか……)と思い直した。そして、問題集を開いて、勉強を始めた。土日は誰にも会わず、一日中部屋で勉強した。

 4月14日、次の週がやってきた。俺は教師に入り、自分の席に座ると、いつもと違う、いやいつもより陰湿な雰囲気を感じた。女子たちがひそひそ話をしている。俺はよく耳を集中させた。その中身はほとんどが相沢のことだった。(ズルして一位になったんじゃない?)(あの子のせいで、授業が遅れるのよ)嫌な感じがした。俺の席から聞こえるから、前に座っている相沢にももちろん聞こえているだろう。しかし、相沢は身動き一つ取らず、席に座ったままだった。相沢の表情がどんな風なのか見たかったが、そこまで女子たちの肩入れをするわけにはいかなかった。俺は厄介なことに巻き込まれたくないのだ。

 俺の頭の中にある言葉はこれだ。「いじめ」。ここは高校だ。これが発覚すれば、停学処分にもなる。将来にも影響するかもしれない。俺はそんな面倒なことには巻き込まれたくない一心で、傍観することを決めた。

 授業はほとんどの授業で最初に小テストが設けられ、俺たちはそれをこなしていった。教師たちも苦肉の策だったのだろう。授業が遅れる代わりに、テストで代案とする。なんとも情けない方法だが、これしか「進学クラス」の面子を保つ方法はないのだろう。

 その週はずっとそんな感じで続いた。休み時間は女子たちのヒソヒソ話。授業は小テストから始まって、前よりテンポの速い授業。しかし、これが進学クラスの宿命なのだ。勉強で存在を証明できなければ、アイデンティティはない。それは俺にもよくわかっていた。

 4月17日の昼休み、これがターニングポイントだったのだろう。相沢は杖をつきながら、教室から出て行った。女子たちが楽しそうに言っている。「トイレ行ったよ!」「早くやろう!」すると、俺の席から見えたのは、山内とその仲間が何かを相沢の机の上に置いている光景だった。山内たちが去った後、俺は後ろの席から相沢の席を見つめた。割りばしを折って、それをセロハンテープでくっつけて形にしている。俺はよく見た。「クタバレ」と書いてあった。俺は鳥肌が立った。女子というのは、こんなに恐ろしいものなのか。いつこんな面倒な物を作ったのだ。これまではただの「出来事」で済んだのが、これでは「事件」に近づくじゃないか。しかし、俺は厄介なことには巻き込まれたくない一心で、何も見ていないふりをした。

 相沢が杖をついて戻ってきた。よろよろしながら、席に座ると、机の上の物を触っているように見えた。そして、しばらく動きが止まった。恐らく何が書いてあるのかを理解したのだろう。相沢はやはり動かなかった。しかし、俺には小さな声で相沢がつぶやくのが聞こえた。「……くたばれ……」俺は初めて相沢の真の声を聞いた気がした。弱弱しい、何かに頼りたいのだが頼れないような声。それがこんな状況で出てくることになるとはなんとも皮肉だが、俺はもちろん声をかけもしないし、何も言わず、ただ教科書を見つめていた。

 俺はこのとき予感していた。中学のときもあったのだ。そう「いじめ」が。俺の予測通り、次の日、相沢は学校を休んだ。

 

第2章 声を届ける人

 

 4月18日。担任の渡辺先生は何もないかのようにショートホームルームを終わらせた。その後、呼び出された生徒もいない。相沢は病気か何かで休んだことになっているのだろう。いや、俺の考えすぎかもしれない。本当に相沢は体調不良で休んだのかもしれない。とにかく、俺の気にすることではない。

 放課後のショートホームルームが終わると、俺は渡辺先生に呼び出された。山内をはじめ、女子たちの視線が俺に集まってくる。俺は職員室に連れていかれた。俺は何もやっていない。そして、「いじめ」のオキテ通り、告げ口をするとアウトだ。俺は何もないということで貫こうとしていた。

 しかし、渡辺先生は予想外のことを口に出した。「相沢さんの家へ今日の日課表を届けてくれないか?」そうだ。このクラス。いや渡辺先生のルールなのだが、誰かが休んだら、その生徒の近くに住む生徒がその日の日課表を届けることにしている。俺は安堵した。それくらいなら、帰り道にでも寄ってやろうと感じた。渡辺先生は相沢の住所を教えてくれて、「頼んだぞ」と言ってきた。何も裏では起こっていないのを俺は確信した。

 その後、教室に帰ると、俺は山内たちに囲まれた。「何言われたの?」女子たちは半ば恐怖、半ば好奇心の声で俺に聞いてきた。俺が日課表のことを言うと、「なんだ~」と言って、山内たちは俺から離れて行った。俺も安心したのは事実だ。

 しかし、ここからが大変だ。相沢の家に行くには良いが、もし保護者が出てきたらどうしようか。相沢は保護者には「いじめ」のことを言っているのかもしれない。すると、俺が代表のような形で保護者から叱責されるのは目に見えていた。俺は日課表が入ったクリアファイルを相沢の家の郵便ポストに入れることを決めた。

 相沢の家の前に着いた。俺の家よりは古い家で、というより築何十年だろうというような家だった。俺は郵便ポストを探した。ない。玄関まで行くと、ドアの横に郵便入れがあった。そこに日課表を入れた。誰も出てこないのを確認してから、俺はそそくさとその場を去ろうとした。すると、玄関が開いた。まずい。俺は泥棒が逃げるように後を去ろうとしたが、玄関から出てきた人物と対峙してしまった。

 相沢だった。相沢は少し痩せたような気がした。俺が「ああ、日課表。内のクラスでは、休んだ人の家に日課表を送るようになってるんだ……」俺がそう言うと、相沢は笑顔を作った。純真な笑顔だった。学校ではひどい目に逢わされているのに。そして、俺もその共犯者、いやその原因を作ったのは俺なのだ。しかし、相沢は笑ったまま、「ありがとう……」と小さな声でつぶやいた。

 その日はすぐに家に帰った。そして、勉強を始めた。しかし、勉強をしても、頭の中にはあの相沢の笑顔が映った。(どんな気持ちなんだろう? 目が見えなくて、しかも学校ではいじめられて……進学したいって言ってたよな……でも、無理だよな……)俺はそんなことを考えながら、問題を解く。しかし、頭から相沢の笑顔が離れない。俺は呪われたような気がして、その日はベッドに入って行った。

 4月19日と20日の土日はいつものように勉強ができた。相沢のことなんて考えてもしなかった。俺は相沢に支配されたのではないかと、昨日は思ったが、そうではないらしい。今まで話したことのない転校生と話した刺激が脳に伝わっただけなのだ。俺は安心して、勉強した。

 次の週。4月21日。この日も相沢は学校を休んだ。しかし、一日は何事もなかったかのように過ぎて行った。教師たちも安心したような様子で、「普段」のペースで授業が出来ていた。山内はじめ女子たちはそれに満足そうだった。彼らはきっと、このクラスから相沢瑠奈という宿敵を追い払ったことに満足しているのだろう。俺にとって、相沢は何か? 考えたが、何でもなかった。相沢はただの転校生で、俺の前の席に座っていて、目が見えない。それだけだ。そんな相沢がいないクラスも日常とは何も変わらず。俺は淡々と授業を聞いた。

 放課後、再び渡辺先生から日課表が渡された。渡辺先生が言った。「相沢さんには会ったか?」「いえ……」「そうか……どうも体調が悪いらしい ……しばらく休むかもしれないな……悪いけど、お前が毎日日課表を届けてくれるか?」「はい、それくらいなら……」俺は優等生らしく振る舞い、職員室を後にした。相沢は何も言っていないらしい。それを教室に戻って山内たちに伝えると、山内が言った。「やったー! このまま、来なかったらいいのに……」相沢が来なかったら、このクラスはどうなるのだろう? 恐らく何も変わらない。いや、それどころか平穏な日々が送れるのだ。それは俺にも分かっていた。だから、俺は菜にも批判できずに、山内たちに相槌くらいはして、その場を去った。

 相沢の家に着くと、相沢が家の前にいた。花に水をやっている。見えているのだろうか?「あの、これ……日課表……」相沢が俺の声に気づくと、俺の前にゆっくりとやってきて、またあの笑顔を見せた。俺はこの笑顔に何かわからないものを抱いた。俺はすぐにわかった。そうか、これが感情なのか。俺は勉強ばかりで疲れていたのだ。感情を忘れたロボットのようになっていたのだ。クラスを見渡しても、ロボットばかり。教師たちも予備校のようなロボット授業。こんな毎日に疲れていたのだ。俺はこの柔らかい感情を抱いて、口を開いた。

「このまま、学校来ないの?」相沢はしばらく下を見つめた。しばらく沈黙が続いた。沈黙を破ったのは相沢だった。「私が来ない方が、いいでしょ?」俺は肯定も否定もできなかった。俺は共犯者、そして「いじめ」のきっかけを作った人間だ。どちらかというと、山内サイドにいる。しかし、どうしたんだ? この腹の神経が痛むような感覚は?

「大学、行きたいの?」俺は静かに口を開いた。正直、ここまで相沢と話ができるなんて思わなかった。しかし、相沢は不思議な雰囲気を持っていた。こちらが安心して言葉を発することのできるような態度を持っていた。力強い笑顔ときれいな声。これが女子たちにも伝わればいいのに……俺はそう感じた。

「行きたい……私、教師になりたいの」意外だった。学校にも身体障碍を持つ教師はいるあら、それが不可能ではないことは知っていた。しかし、今の段階では無理だろう。

「ごめんね、こんなこと言われても困るよね?」相沢は静かだが、意外と言葉をきちんと発することに気づいた。俺はそれを感じながら、相沢としばらく話したいと思った。「どうして教師になりたいの?」 再び黙り込んだ。そして、口を開いた。俺は妙なことに、この相沢のワンテンポズレる感覚にも違和感を感じなくなった。

「私、目が見えないから……そんな弱い人たちの支えになりたいの……勉強だけじゃなくて、きちんと『生きる』っていったら大げさかな? そんなことを教えられる人になりたいんだ……」俺はさっき考えたことを再び脳裏によぎらせていた。勉強だけじゃない。そう、この相沢はロボットを生産するのではなく、人間を育てたいと言っているのだ。俺はそのときの感覚で深く同意し、「そうか……」と言った。

「明日も来ないの?」しばらくの沈黙の後、相沢は言った。「多分……」俺はなぜか寂しさを感じた。相沢がいなくて平和じゃなかったのか? どうして相沢が来ないと寂しいのだ? 俺は訳が分からなくなった。相沢は喋りすぎたとでも思ったのか、口に手をやった。俺はそれがシグナルだと思い、その日は別れを告げた。

 部屋の中で、相沢のことを考え続けた。かわいそうだという感情が大きかった。しかし、どうして、俺がそんなことを思う? 俺にとって相沢は何でもない「空気」じゃなかったのか? 俺は厄介なことには巻き込まれたくない。勉強もして、山内ほどではないけど、良い成績を取りたい。しかし、今の山内を見るとどうだ? 汚い。醜い。山内と相沢を比べてみた。相沢は目が見えないだけで、生きる上での試練を神に渡されて、それでも一生懸命に生きようとしている。そして、自分のような弱き者たちの味方でありたいと言っている。一方の奴は弱い存在を連携して排除している。どちらが人間として優れているかなんて一目瞭然だ。

 俺はしばらくベッドの上で考えた。そしてすぐにボイスレコーダーに手が伸びていた。

 

 4月22日、今日も相沢は来なかった。クラスの大半の連中は相沢の存在なんて忘れてるようだった。放課後、日課表を受け取ると、今日は教室には帰らず、すぐに相沢の家に行った。

 相沢の家に着いた。誰もいなかったので、呼び鈴を鳴らした。(親が出てきませんように……)そう願ったのが功を奏したのか、相沢が出てきた。いつものような笑顔で手を前にかざした。俺から日課表が与えられると思ったのだろう。俺は日課表は渡した。しかし、もう一つ違う物を渡した。

「この重たいものは……CD?」「CDは聞ける?」「うん、できるけど……」

 しばらくの沈黙の後、今度は俺から沈黙の封を切った。「今まで授業で習ったことを家で録音したんだ。これ聞いたら、今まで授業でやったことはほとんど復習できる」

 相沢はしばらく黙り込んだ。「これも家の近い人の仕事になったの?」俺はマズイと思った。相沢に気を使わせてしまう。俺は本当のことを言った。「いや、俺が個人的にやってることだけど……」言った後で、これまたマズイと思った。

「あ、ごめん……迷惑だよな?」すると相沢は笑顔を取り戻し、少し戸惑いながら、「ありがとう……」と言った。相沢をよく見た。童顔だが、きれいな整った顔をしている。つぶった目から少し涙がこぼれそうになっていた。俺は訳が分からなくなって、「じゃあ、また明日!」と言ってその場から逃げた。

 

 4月23日、やはり相沢は学校へ姿を現さなかった。いつも通り、俺は授業を真面目に聞いて、放課後、日課表を受け取った。

 それから相沢の家に行った。いつも17時ごろに相沢の家に行くのだが、今日は相沢が玄関の前で待っていた。俺は日課表とCDを渡した。

 相沢は少し申し訳なさそうな表情をしていた。「ごめん…… 迷惑かな?」「うんうん。嬉しい。本当にうれしいけど、君に申し訳ないなと思って…… 手間かけさせて……」「いや、これをやった方が俺の勉強の定着にもいいんだ。復習できるというか…… でも、別にこれで相沢に学校来てくれって言ってるんじゃないから! 自分のペースで勉強しな! ってことで……」

 相沢の目からはまた涙が流れていた。「ありがと…… ありがとう……」なんどもお辞儀をしながら、相沢は俺に礼を言った。

 

 俺は家に帰って、前に言った復習と予習を終わらせてから、自分の声をボイルレコーダーに録音して、それをCDに焼くという作業をしていた。これがしばらく続いた。最初は大変だった。学校に来ていない相沢でもわかるように、一生懸命わかりやすい解説を心がけた。参考書にアンダーラインを引いて、そこを自分なりのわかりやすい言葉に置き換えた。一日1教科を終わらすのに、一時間はかかった。俺はすっかり夜遅くまで起きるようになっていた。

 相沢は相変わらず学校に来なかったが、俺はこの「声を録音する作業」が楽しくなっていた。誰かの役に立っている。俺は今までにない高揚感のようなものを感じていた。相沢の家に行くと相沢が待っているという日々が続いた。そしていつも涙を流しながら、俺のCDを受けとる。この間、俺は一度も「学校に来て」とは言わなかった。

 一度俺は相沢に聞いたことがある。「俺のCDちゃんと聞いてくれてんの?」相沢はすぐに、少しムッとした表情で言った。「聴いてるよ! 過去完了はhad+動詞の過去分詞でしょ?」きちんと聞いてくれているようだ。俺は安心した。

 ある日、相沢は俺に尋ねた。「夢はないの?」唐突に聞かれた俺は恥ずかしくなった。ただ、自己効力感のために勉強してきただけなのだ。そんな俺に夢なんてない。「君、教師になったら? いい声してるし、わかりやすいし!」教師か……俺は今までそんなこと考えもしなかった。「私と違って、頭も良いし……」俺は首を横に振った。俺の顔は真っ赤だった。何か言いたかったが、しどろもどろの声しか出せず、それに相沢は笑った。相沢の笑顔は素敵だが、こんなに笑うとは思わなかった。俺は相沢とそのくらい仲良くなっていた。

 教師を目指すのならば、相沢と同じ夢を持つことになる。俺は悪い気がしなかった。それどころか、相沢と同じ大学に通えるかもしれないという希望を持った。俺は胸の辺りがいつも痛かった。これが4月から5月まで続いた。俺は何を目指していたのだろうか? 俺は何のためにこんなことを続けているのだろうか? 俺にはわからなかった。ただ、これ、つまり相沢に声を届けることが日課になっていただけだ。これが俺の「当たり前」だった。この「当たり前」がずっと続けばいいのに……それくらいしか、俺は考えていなかった。そんな「当たり前」がゴールデンウィーク前に壊れた。

 

 第3章 パンチ

 

 5月1日。俺はこの作業がいよいよ楽しくなった。弱い者の味方というのはスゴイ存在だと思っていた。自分にはそんな存在になれるなんて思わなかった。いや、今までそんな機会などなかった。だが、今、俺は相沢という弱い存在を助けている。俺は相沢の喜ぶ顔を考えながら、今日も自分の声をボイスレコーダーに吹き込んだ。

 5月2日、相沢の家にやってきた。だが、今日は相沢がいなかった。呼び鈴を鳴らすと、しばらく応答がなかった。まずい。やりすぎたか……。それとも、親に相沢が言ったのか? 色々と考えていたら、玄関が開いた。

 相沢はいつもの笑顔ではなく、曇った顔つきをしている。沈黙。しかし、いつものことだ。俺は日課表とCDを渡そうとした。だが、相沢は日課表のクリアファイルをしっかりと自分の手で認識すると、CDはこちらへ向きだしてきた。

 どうしたんだ? CDはやはり迷惑だったか? そう落胆のような感覚に陥っていると、相沢が静かにしゃべりだした。

「もう、CDはいらないよ……」「え……?」「私、学校辞めることになったの。このままじゃ、単位も危ないし、高卒認定試験受けることにしたの……」

 どういうことだ? 今まで俺がしてきたことは無駄になるのか? 俺はパンチを食らった気分だった。不意の一撃だった。俺はすぐに次の言葉が出ていた。

「学校、戻ってきなよ! もうあいつら、ひどいことしないよ……」「そんな保証なんてないよ……」「だから、授業はいつも通りやって、俺がいつもCD持ってくるから……」「そんなの君に悪いよ!」

 相沢はしっかりとCDを俺に手渡し、家の中に入ろうとした。次の瞬間俺の口から、いや心から言葉が飛び出した。

「好きだ! 好きだから、いなくならないでくれ!」

 相沢の後ろ姿は一瞬動きをなくしたが、すぐに玄関は閉じられた。

「相沢……瑠奈……」俺は相沢のパンチを受け止められないまま、ただ誰もいない場所で一人肩を落とした。

 

第4章 声を聴かせて

 

 ゴールデンウィークが終わった。俺はゴールデンウィークの間、抜け殻のようだった。何もする気が起きない。今までの生き甲斐が全てつぶれたと思った。

 5月7日、学校へ行った。俺は自分の机の上にある物にすぐに気づいた。今まで相沢に届けたCDの山が入った袋だった。

 俺は意味が分からなかった。すると、山内が俺のところへやってきた。「このストーカー!」俺は太陽が落ちてきたのかと思った。ストーカー? どうして俺が?

「相沢さんの家にいつもこれを届けてたんでしょ? 相沢さんが言ってたよ! このストーカー!」山内はすぐに自分の席に戻った。

 すると、山内の隣の席に相沢が座っていた。相沢は無表情のまま、山内に何か言われてるのを聞いている。

 裏切られた。俺はダシに使われたのだ。俺にストーカーをされたという名目で、相沢は山内たちを味方につけ、学校へ帰還した。俺はどうなる? 今までの俺の努力は? 

 相沢は弱い存在じゃなかったのだ。いざとなったら、自分だけの脚で立ち上がれる強さを持っていた。それを俺は今まで妨害してきたんじゃないか? 俺は相沢が自分で学校へ戻ってくるまで待つべきだったんじゃないか? 

 そして俺は自分に酔いしれていた。弱い者の味方ということで、自分自身の存在意義を保っていた。俺は天罰を受けたのだ。調子に乗っていた天罰を受けたのだ。しかし、このメラメラと炎のように湧き上がる感情は何だ。裏切りだ。俺は相沢に裏切られた。そうとしか思えなかった。

 

 その日は、授業が終わると、すぐに学校を出た。教室を出る際、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。女の声だったから、俺の悪口だったのだろう。それを深く追求することなく、俺は教室から逃げ出した。こんな教室にはいられなかった。

 家に帰って、俺は袋からCDを取り出した。そしてそれを聞いていった。俺の声だ。紛れもない俺から相沢へ向けた声だった。しかし、それを今は俺が俺自身で聞いている。こんな空しいことなんてあるか?

 涙が出てきた。今までの努力が水の泡になったこともそうだが、相沢と過ごした玄関での思い出がよみがえってきた。俺は一体何だったのだろう?

 ランダムにCDを聞いていって、最後に渡したCDは全て聞こうと決めた。何時間も自分の、自分へ向けた声を聞いている。空しい。悲しい。俺の声が途切れ、そのCDの中身はお終わった。だが、ここで異変に気づいた。しばらく沈黙が続いている。おかしい。俺はCDを取り終わると、すぐに録音を辞めるはずだ。こんなに沈黙があるのはおかしい。しばらく不可思議な気持ちで待っていると声が聞こえてきた。相沢の声だった。

 

「〇〇君、昨日は驚かしてゴメンね。でも、こっちも驚いたよ。うんうん。ホントはずっと前から気づいてた。〇〇君が私のこと好きだってこと。私ね、目が見えないおかげで、耳がよく聴こえるの。〇〇君の声、いつも震えてた。〇〇君、私のこと好きなんだって気づいた。でも、その話をしたら、今までの関係が壊れると思って、言えなかった。……私、学校へ戻ることにした。〇〇君が励ましてくれたから、自分の力で立ち上がることにしたよ。一緒に教師の夢叶えようね。最後に……もしよかったら……これからも、君の声を聴かせて……」